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小見川村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。下総国香取郡のうち。「家忠日記」天正20年2月27日条に「小見川宿」,文禄2年11月29日条に「小見川町火事出来候」と見え,当時すでに舟運を背景にした町場としての展開をみせていたことが知られる。はじめ小見川藩領,元和5年から佐倉藩領,寛永12年から三浦氏領,同16年幕府領を経て,同年8月から鹿沼藩領,享保9年からは小見川藩領(鹿沼・小見川両藩の藩主はともに内田氏)。なお,「旧高旧領」では幕府・小見川藩・津藩の相給と見える。村高は,「元禄郷帳」300石余,「天保郷帳」1,089石余,「旧高旧領」1,168石余。貞享5年館之内に陣屋が置かれた。当地は利根川水系でも古くより舟運の要衝に当たり,元禄3年には江戸への廻米運賃100石につき3石7斗と公定されるなど城米積み出しの河岸場として公認される(徳川禁令考前6)。「小見川船」は諸役免許の特権をもち,享保5年船改めでは49艘(木内神社文書/県史料下総)。なお,江戸期の河岸は黒部川沿いより,外浜・内浜・新浜地先の実相寺河岸が中心であったともいわれる。寛永10年大根塚野をめぐり当村と付近7か村との間に争論が起こり,開発新田・林は当村の進退にまかされ,ほかは入会地化される(菅谷家文書/小見川の歴史)。小見川藩による大根塚野開発は寛保元年にはじまり,延享3年の検地では原地新田高187石余が打ち出された。享保15年の町家数539,市日は2・7の日,6月15日の祇園祭,9月9日からの妙見祭のほか4月5日の香取祭があった(木内神社文書/県史料下総)。町場は本町・新町など8町に組み分けされ,町名主・町年寄が置かれた。醸造業も発達し,慶応4年の醤油造人5・酒造人4・濁酒造人5,生産高は醤油1,020石・酒943石・濁酒186石(東庄町多田家文書)。神社は須賀神社・妙剣神社・金刀比羅神社・稲荷神社・姫宮神社など,寺院は真言宗正福寺,天台宗善光寺,浄土宗本願寺(香取郡誌)。明治8年千葉県に所属。明治7年善光寺を仮校舎に小見川小学校開校,翌8年小見川陣屋跡に移転,同20年小見川尋常小学校となる。同20年の大火で130戸が焼失。明治22年小見川町の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7292460