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加茂村(近世)


 江戸期~明治7年の村名。上総国市原郡のうち。天正16年里見氏領,天正18年徳川氏領,慶長7年久留里藩領。のち幕府領,旗本領の交替をくりかえし,正徳5年からは旗本水野氏領(小幡重康家文書)。村高は,文禄3年「石高覚帳」49石,「元禄郷帳」128石余,「天保郷帳」145石余,「旧高旧領」154石余。家数・人口は,享保10年40・235,天保14年38・114(同前)。村内には隣村本郷村の住民13軒の家があり本郷百姓と呼んでいたが明治に至って本郷村と談合して当村の籍に移した。賀茂大神宮除地内に住み神社に貢納する百姓を宮百姓と呼び,当村の地頭に貢納する百姓(主に柏野に居住)を村百姓と呼んでいた。鎮守の賀茂大神宮はもと加茂大明神といい里見氏17石余,徳川氏10石の朱印地を所持し近隣53か村を氏子とし(約2,000戸),祭礼は4月と10月の中の酉の日で,秋は3基の御輿が養老川岸まで渡御し,太々神楽・相撲などの興行もあって郡内外からの参詣客でにぎわった。享保7年賀茂大神宮と改称し,同12年現社殿も建立された。神主平田氏・禰宜小幡氏は世襲。養老川沿いの当地は畑作に藍の栽培が文化年間から始まり,嘉永年間には武蔵国埼玉郡の古嶋丈助が当地へ来て技術指導にあたった。親郷の畑地はその中心地となり,村内に2軒の紺屋ができ,明治中期頃まで続けられた。柏野原は加茂・不入・大和田3か村の入会い秣場であったが,元文年間江戸の町人が発起人となり代官の援助のもとに開墾が計画されたが3か村が訴訟をおこしこれに反対,結局開墾を免れた(小幡重康家文書)。明治6年千葉県に所属。明治7年高滝村の一部となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7292924