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佐原村(中世)


 鎌倉期から見える村名。下総国葛原牧のうち。香取神領の1つ。建保6年3月20日付社家連署寄進状に「佐原村内御名田二段」を,地頭千葉介成胤の北方平氏所生の男女子と地頭代平弘吉の妻安部氏所生の男女子ら息災のために,香取大神宮寺宮殿観音に寄進する旨が見える(旧録司代家文書/県史料香取)。鎌倉後期に香取神官大中臣氏が一族内で所職・所領をめぐって相論を行った際,当村もその対象となったが(大宮司家文書正安2年6月日付摂政前太政大臣家政所下文/香取文書纂),嘉元2年4月22日には当村を含む葛原牧内14か村について4分の1ずつ知行することを大中臣実康・実秀・実胤・実幹らが和与している(旧大禰宜家文書/県史料香取)。弘安元年10月14日付香取神領田数目録には当村分として司(大宮司)・金丸(大禰宜)・御名(千葉氏)などの名田からなる122筆計18町9反の田地を載せ,正慶2年4月16日付香取大領麦畠検注取帳には司・御名など51筆11町1反余を載せる(旧案主家文書/県史料香取)。室町期の応永5年10月12日付佐原案主吉房譲状には「佐原安主内の田之つほつけ」として,「川中之ほまち一,かわむかいのほまち一,しまめくりのほまち一,……かわむかいにほまち四析(枚),かわよりこなたに上下に四まい,つつみさきにほまち一,いとほまち一,関口にほまち一,せきつか之ほまち一,大はしのつつみのはしり下之ほまち一……」などが見え,鎌倉末期以降,香取浦に沿う佐原付近の自然堤防縁辺の低地の開発が進展し,ほまち田(免税地)となったことが窺われる(旧案主家文書/県史料香取)。南北朝期には千葉氏の地頭代中村氏の支配が及び,千葉氏の御名が多く存在した。応安5年5月20日付佐原村検雑事帳は当村を「南のかう屋」分と「おきの御名」分に分け,前者に4町1反余,後者に3町4反余の御名を記している(旧録司代家文書/県史料香取)。この応安5年検注雑事帳と司(大宮司)名田を記す応永32年5月10日付佐原村一里夏畠検注取帳(旧案主家文書/県史料香取)によれば,佐原村一里23か坪中15か坪が屋敷地であり,住人に「かミしも」「ヲノサ」「クシラ」「ヲンカナ」「コウヤ」「アフラ」「ムラサキ」などの注記があり,また,「をの座」「かへ座」「かるもの座」の記載があるなど,商工業者が集落を形成していたことが知られる。更に,「南かう屋の内」には「天王」(牛頭天王),佐原村一里には「ヒシヤ門タウ」(毘沙門堂)・「観音堂」などの寺社があった。牛頭天王の近傍には八日市場・二日市場も開かれていた(旧録司代家文書嘉慶2年12月2日付諸神官惣領庶子死亡逃亡跡田畠屋敷地目録/県史料香取)。中世の佐原村は北流して香取浦に注ぐ小野川河口部の右岸(現佐原字本宿)に位置し,一方,左岸(現佐原字新宿)は大戸荘内であった。応安7年の海夫注文には当村域の津として「いとにわの津」(現佐原字荒久・仁井宿付近)「さわらの津 中村」と見え(旧大禰宜家文書/県史料香取),また,隣接する大戸荘域には「せきとの津」「いわかさきの津」(現佐原字岩崎)があって(旧大禰宜家文書/県史料香取),この付近が香取浦の水運の要地であったことを窺わせる。当村は,その集落的展開の結果,「佐原宿」と称されるに至った(旧録司代家文書明応8年12月27日付慶安田地売券・弥勒2年慶満屋敷寄進状/県史料香取)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7293968