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広瀬郷(中世)


 鎌倉期~南北朝期に見える郷名。安房国群房荘のうち。正治2年2月28日の吉田経房処分状写(勧修寺家文書/栃木県史史料編中世4)に「安房国郡(群)房庄内広瀬郷」とあるのが初見で,五辻斎院(鳥羽天皇皇女頌子内親王)が当郷を上賀茂社の賀茂経蔵に施入している。これより早い(寿永2年)7月7日の後白河上皇院宣(多聞院文書/県史料県外)でも,吉田経房の子息定経が群房荘に関与しており,同荘は当時吉田家領であったことが知られる。吉田家は同荘領家職を,五辻斎院は本家職を有していたと推定され,同荘のうち当郷部分だけが分離され賀茂経蔵に寄進されたのであろう。なお,経房処分状によれば賀茂経蔵は吉田家の管理に属したようである。弘安3年5月5日の亀山上皇院宣(富田氏所蔵文書/神奈川県史資料編2)でも当郷が群房荘の「本家惣領」と区別して扱われている。その後当郷は南・北に分割されたと考えられ,南北朝期には鶴岡八幡宮の末社安房国安西八幡宮領として広瀬郷北方の地名が見える。鶴岡八幡宮・安西八幡宮の支配は必ずしも安定したものではなく,武士の押領を受けたとみえ,貞治5年9月29日の鎌倉公方足利基氏御教書写では,広瀬北方の下地を鶴岡八幡宮神主に渡し付けるよう命じられており,康応2年2月11日の安房守護代藤原某遵行状写でも同趣旨の命令が出されたことが知られる(鶴岡神主家伝文書/神奈川県史資料編3)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7296212