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藤意郷(中世)


 鎌倉期から見える郷名。下総国相馬郡のうち。嘉禄3年12月日の相馬能胤譲状写(岩松文書/県史料県外)に「御くりやのうちニ,てか・ふせ・ふちこゝろ・のけさき」と見える。平能胤(相馬義胤)は陸奥国千倉荘とともに相馬御厨内の4か所を娘土用御前に譲与。この譲状には,土用御前の支配を妨害する者があれば,権門に寄進してでも支配を維持するように記されている。土用御前の相続については,貞永元年11月13日付で幕府より安堵されている(岩松文書/県史料県外)。その後,土用御前は宝治2年以前に新田氏の一族岩松時兼と結婚,弘長2年ごろ死去したが,当郷は娘とち御前に譲られたらしい。弘安5年11月12日,とち御前(尼真如)は新田荘内の所領とともに「さうまの御くりやのうち,ふち心の郷」を娘藤原土用王御前に譲与している(岩松文書/県史料県外)。建武元年12月21日の妙蓮譲状案(同前)をみると,尼妙蓮(藤原土用王御前)は子がなかったため,母の実家の岩松直国を養子にむかえて当郷を譲与している。建武4年,相馬氏の一族相馬泉五郎胤康の子胤家は「相馬御厨内泉郷并手賀・藤心両郷〈新田源三郎跡〉」の給与と安堵を要求したことが,相馬祐賢申状案(相馬岡田文書/県史料県外)に見え,さらに建武4年8月18日の斯波家長誓状(同前)には家長が胤家の要求を高師直に披露したことも見える。新田源三郎とは岩松直国のことであり,直国は当時,当郷の支配権を否定されていたらしい。しかし,胤家の要求にもかかわらず当郷は相馬岡田氏には給与されなかった。応永2年閏7月5日のものといわれる岩松左馬助所領注文(正木文書/県史料県外)には「藤意郷 山名知行」とあり,その前後と思われる岩松氏所領注文(同前)には「藤意村〈さうおう寺料所 今度刻奉公山名入部〉」とあり,一時「さうおう寺料所」であったが,その後,山名某が支配していたとも考えられる。しかし,享徳4年ごろと思われる岩松満国の孫持国の岩松氏所領注文(同前)にも当郷は記載されており,室町期における当郷の支配状況については不明な点が多い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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