八幡村(近世)

江戸期~明治7年の村名。上総国市原郡のうち。江戸中期は八幡藩領,「上総国村高帳」では幕府,旗本岩本氏など6氏の相給,「旧高旧領」では幕府,旗本松本氏など7氏の相給のほか八幡社領150石。村高は,文禄3年「石高覚帳」1,404石,「元禄郷帳」1,379石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,403石余。八幡藩は寛文年間堀直良が当地に陣屋を移して立藩したが,元禄11年廃藩。のち貞享3年大久保忠高が字仲町に陣屋を置いたと伝え(市原郡誌),「陣屋」を屋号とする家もあるが,確証はない。「上総国村高帳」では家数379。天保9年の家数339・人口1,564,房総往還の駅場として栄え,盆暮には市もたった。農間商い諸職人渡世は128,うち居酒屋8・酒仲買2・髪結2・湯屋4・旅籠2・煮売屋3・穀商売16など(飯香岡八幡宮文書/県史料近世)。八幡浦から江戸への海上距離は9里で,運賃は100石につき1石3斗。年未詳未年の史料によれば,田肥に用いる螺子【きさご】かきをめぐり北生実【きたおゆみ】村と争論を起こしている(宍倉家文書/県史料下総)。慶応4年の戊辰戦争の際には市川・船橋方面から敗走してきた幕府軍が当地に集結した官軍と南新田で交戦,幕府軍は敗れて五所方面に逃走した(市原のあゆみ)。神社は飯香岡八幡宮。寺院は同宮別当寺の真言宗霊応寺(若宮寺)のほか,浄土宗無量寺・称念寺,日蓮宗妙長寺・円頓寺。明治6年千葉県に所属。同7年円頓寺に八幡小学校開校,教師3,生徒数は男81・女45(市原市史)。明治7年八幡宿となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7297423 |