春日山藩(近世)

江戸期の藩名頸城【くびき】郡春日山に居城を置き越後一円を領有した外様大藩藩主は堀秀治・忠俊の父子2代で,慶長3~12年の9年間存続した秀治は,天正18年父秀政が小田原攻めの陣中で病死すると,その遺領を継いで越前国北庄(福井)29万石の城主となったが,慶長3年豊臣秀吉の命で越後国全域45万石の領主として,上杉景勝会津移封後の春日山城に入り,当藩が成立したなお,与力大名として越前以来の村上義明(村上9万石)・溝口秀勝(新発田【しばた】6万石)が付属しており,両氏の所領を除いた30万石が堀氏の自領であった秀治は入封後間もなく領内の検地を実施堀検地と呼ばれ太閤検地に倣ったものだが,荒廃した田畑をも作毛地同様に石盛りし,また青苧・漆なども登録して貢租の対象としたため,農民にとっては負担加重となり不満が高まった同時に上杉氏の恩顧をこうむった神官僧侶土豪層も上杉氏統治時代を追慕したこういう情勢のなかで,慶長5年8月上杉景勝は石田三成と図って旧領越後に侵入,魚沼・蒲原の所々で堀軍を苦しめたこの際,越後の農民や土豪層は旧主上杉氏の軍を助けて戦ったため,この騒乱を上杉遺民一揆(また越後一揆)というが,同年9月の関ケ原の戦で石田方が壊滅すると,上杉軍は会津へ引きあげ一揆は終息したなお,堀氏は上杉氏時代の春日山城を普請補強した形跡があり,監物堀・監物土居が屈曲しながら1km余も続いているが,この遺構は秀治の家老堀監物直政の名にちなんだ名称である同11年秀治が没し,嫡子忠俊が跡を継いだが,翌12年,以前から府中(直江津)の東,関川を隔てた福島に築造を進めていた新城に移り,ここに春日山藩は終わった

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7308043 |