釶打村(中世)

鎌倉期から見える村名。能登国羽咋【はくい】郡のうち。承久3年9月6日の能登国田数注文に,「釶打村本三丁五反二 六町五段二」とあるのが初見(鎌遺2828)。惣村鎮守の熊野権現(藤津比古神社)本殿は,正和3年8月建立で,国重文(銘文集成)。室町末期の文明年間,本願寺蓮如の室となった蓮能尼は,能登畠山一族の畠山政栄の女(大隅守家俊の姉)で,政栄は釶打村西谷内【にしやち】城主であったといわれる(富来町史)。蓮能尼の子の清沢【せいさわ】願得寺実悟(蓮如の十男)の「拾塵記」に,「能登国鳳至郡(ママ)に釶打村之内多羅村と云所ニ一の道場の主たる入道侍りき(道慶と云ものあり),是も志ふかき事限りなし」と見え,道慶道場の存在と,この地域に能登国のうちでも,比較的本願寺派の教線が早くから浸透していたことが知られる。永禄2年7月28日には,当時一向一揆と結んで能登畠山氏と戦っていた温井孝重・三宅慶甫らが,「釶打」の了源房に羽咋郡藤懸之内の兵糧米30俵を至急調達するよう要請していた(阿岸本誓寺文書)。また,明応8年6月5日には,能登一ノ宮気多社の神主桜井正藤が同姓の式部大輔に,同社三権職分の「釶打村」免田581束刈(百姓の屋敷畑共)を売却しており,天正9年10月2日の気多社三権職支配状のなかにもそれが見え,釶打村に気多社の神田があったのがわかる。天正5年11月1日の気多社免田記にも,神官方として「なたうち免田」より60俵8貫500文が,同社へ納められていた(以上,気多神社文書/史料纂集)。なお,永禄2年9月の鎮守熊野権現奉加札に,釶打村の地頭国分氏の一族・被官や村内・村外の土豪・百姓衆が結衆して同社へ奉加していたのが見える(銘文集成)。国分氏については,能登守護畠山氏との関係は不明ながら釶打村西谷城主であったと伝えられ,天文年間に熊野権現へ獅子頭を寄進したほか,永禄年間には,国分慶胤の家臣新保兼家が奉行となって同社の修造に当たっていた(銘文集成)。また,元亀4年3月18日付畠山義胤書状によれば,能登から出奔中の前七尾城主畠山義胤(義綱)が木田修理亮に,被官飯川肥前守らの返忠に奔走したのを賞し,本意達成の上は「国分熊石知行分一円」の諸役御免を約束しており(寸錦雑録),同時期と推定される5月10日付宛行状によると土肥次茂も熊来荘中島の真宗坊主江尻浄念坊に,「富木之内釶打村国分左兵衛分50貫文」のうち30貫文を恩賞として与えている(浄蓮寺文書/中島町史)。ともに詳細は不明であるが,釶打の領主国分氏の所領とかかわるものであろう。中島町釶打地区古江の真宗大谷派国分山安泉寺は,同寺の由緒書によれば,国分氏末裔と伝えられる(安泉寺文書/中島町史)。天正5年9月の越後上杉氏による七尾落城に際し,従来の領主国分一族が滅びた後,当所は,畠山旧臣の佐脇氏らが知行するようになっていたことが,同年11月の気多社免田記から知られる(気多神社文書/史料纂集)。羽咋郡の北域山間部の鹿島・鳳至【ふげし】両郡境で,熊木川上流およびその支流の西谷内川・鳥越川流域周辺に位置し,現在の中島町釶打地区に比定できる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7326819 |





