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大野町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。越前国大野郡のうち。江戸期は大野藩の城下町。天正元年朝倉義景が滅び,同3年金森長近は織田信長によって大野郡内に3万石余を与えられた。同13年長近転封後,青木一矩・織田秀雄・土屋正明・土屋忠次・小栗正高と城主はめまぐるしく変わった。寛永元年松平直政が5万石で入封し,ここに大野藩が成立,同藩の城下町となった。大野藩は以後,寛永12年松平直基,正保元年松平直良,延宝6年松平直明と継がれたが,天和2年土井利房が4万石で入封,以後利治(知)―利寛―利貞―利義―利器―利忠―利恒と土井氏の城下町として明治維新に至った。高は,「正保郷帳」5,087石余うち田方2,599石余・畑方2,488石余,「元禄郷帳」4,492石余,「名蹟考」4,492石余,ほかに240石余大野城代とあり,「天保郷帳」に「古者,大野町・篠倉村・野口村・清滝村・金塚村・西方寺村六ケ村」と肩書きされ5,205石余,「旧高旧領」5,206石余。大野の町づくりは天正3年入封した金森長近によって始められた。長近は亀山に城を築き,その東麓に城下町を形成した。町は東西22町・南北1里9町にわたり,城のある亀山は約249mの高さで,寛延2年の大野城并廓内絵図(大野市史)によれば,山頂を本丸と定め石垣を組み大天守と小天守を築き,南に天狗書院があった。東麓を二ノ丸として,内堀で囲んで居館と政庁が置かれ,その外側に三ノ丸があった。西麓を蛇行している赤根川を城の守りに利用,周囲は外堀をめぐらし,武家屋敷はその周囲に置かれた。大野家中屋敷割帳(同前)によれば,三ノ丸のうちに11屋敷,槙門のうち1屋敷,柳町のうち16屋敷,臼清水18屋敷,新堀5屋敷,後山3屋敷,吉原町5屋敷,裏水落15屋敷,鷹匠町13屋敷,正善町1屋敷,表水落22屋敷と合計110屋敷が書き上げられている。下級武士は1屋敷地5,6軒で構成され,長屋も見える。町並みは城の東,柳町からいわゆる天正直方型道筋が東西と南北に走っていた。東西6筋は城に近い側から一番(本)町・二番町・三番町・四番町・五番町・寺町の各通りがあり,通りの中央を町用水が流れ,町家はその両側にあった。南北6筋は南から横町(大鋸町)・六間町・七間町・八間町・石灯籠小路・正善町の各通りとなっていた。木本【このもと】扇状地の末端部に位置していたため,南部はやや高く北西部に向って徐々に低くなって五番町が一番高く,寺町は東へ低くなっていた。各道幅は一~五番町は30尺,寺町20尺,横町18尺,六間町24尺,七間町28尺,八間町15尺,石灯籠小路12尺,正善町15尺であった(大野町史)。「名蹟考」に見える町名に,艮は鷹匠町・正膳町・五ケ町,巽は柳町・本町・二番町・三番町・四番町・五番町・六間町・七間町・八間町・石灯籠小路・寺町・比丘尼町,坤は新堀・清水・頓入屋敷・野口・横町・大鋸町・皮屋町・春日町・宮小路・神明町,乾は後山・出村・葭原町・代官町・前後水落がある。また,枝郷に篠倉村・野口(印内)村・西方寺村・清滝村・金塚村があった。しかし,町名は変遷があって定かでない部分も多い。また,一番町と二番町は,七間町通を境に南を上町,北を下町と称しそれぞれに庄屋が置かれていた。三番町も同様であったが,宝暦10年以降の記録には上町と下町の区別が見られなくなり,通称地名が用いられることが多く,石灯籠小路から北を桶屋町,八間町と七間町の間を秋葉下町,七間町と六間町の間を魚町,六間町と大鋸町の間を大工町と称し,大工町には庄屋が置かれることもあった。四番町は上区・中区・下区の三つに分かれ,中区は鍛冶町として庄屋が置かれていた。七間町は三番町通で二分され,東を七間西町,西を七軒東町とし,それぞれに庄屋が置かれた。天和2年の大野丹生足羽郡郷村高帳(大野市史)によれば,高5,087石余,檜物屋役銀36匁,紺屋役銀47匁5分,塗師屋役銀24匁,畳屋役銀8匁4分,白銀屋役銀12匁,蝋臼役銀86匁,塩売役銀150匁,鍛冶役銀230匁1分,笹又村若生子村米口留役銀1貫206匁5分,大野町糀室舂役・勝原村秋生村大納村口留役銀3貫目,面谷銅山運上銀10貫目,川役米6石余,作徳出分米8石,山札代米1石余。享保6年の田畑町歩書上帳(土井家文書)によれば,田畑合296町8反余うち田方139町1反余・畑方157町6反余とあり,一番上町・一番下町・二番上町・二番下町・三番町・大工町・四番町・鍛冶町・五番町・比丘尼町・横町・七間西町・七間東町,町枝野口村・同篠倉村・同清滝村・同西方寺村・金塚村の各庄屋の名が見える。弘化4年の皆済目録(大野市史)によれば,高4,463石余のうち引高が312石余あり,残高4,151石余・取米1,352石余(高4,110石余は取米1,348石余・毛付定免3ツ2分8厘・本高免3ツ3厘内,高40石余は下据村無土弁高で取米4石余・高より1ツ定免),口米40石,出分高88石などを納入,納入方法としては夏成綿納10石余(綿4貫815匁納)・大蔵銀納130石余・大蔵米納463石余・石代納530石余など納米合1,442石余・納銀合2貫462匁1分とあり,一番上町・一番下町・二番上町・二番下町・三番町・四番町・五番町・比丘尼町・横町・七間町・鍛冶町の各庄屋の名が記されている。宝暦6年の村々本高家数人数覚帳(武田家文書)によれば,高4,463石余,家数775(寺31・山伏4・庵3・門前地子24・本家660・地名子53)・人数4,709(男2,389・女2,320),馬24,右近次郎村に越高28石余とある。慶応3年の史料(今井家文書)によれば,一番町通は庄屋2・家数124・高919石余,二番町通は庄屋1・家数134・高362石余,三番町通は庄屋2・家数119・高675石余,四番町通は庄屋2・家数96・高322石余,五番町通は庄屋1・家数76・高350石余,七間町通は庄屋2・家数56・高559石余,比丘尼町通は庄屋1・家数75・高585石余,横町通は庄屋1・家数92・高463石余,野口村は庄屋1・家数21・高203石余,篠座村は庄屋1・家数20・高272石余,金塚村は庄屋2・家数34・高72石余,新田は家数6,下屋敷は家数6・高6斗余,惣高4,844石余・家数計868とある。城下は木本扇状地先端のため地下水が豊富で,本願(寺)清水を町用水として流す町作りが行われた。町用水は一番~五番町の通りの中央に水路を築いた。初期の水路幅は三尺位の素掘りで,底に長さ三尺の松の木を二つ割りにしてびっしりと敷きつめた。飲料水や生活用水は表通りへ上水として流し,生活雑排水は背戸(町屋の地境にもなる)に下水として流し,その利用法は厳しく管理された。このほか芹川用水があり篠座村の湧き水を堰きあげ,大野城の二ノ丸や外堀に流され,町方と侍屋敷を分ける役割を有し,町民は用水堤に立入るのさえ禁止されていたという。寺町用水は寺屋敷と町方を分ける役割を持っていた。町用水・芹川用水・寺町用水ともに花倉家が水利権を持っていた。同家がこれらの水利権を有したのは金森長近の町作りの際豪農であった同家の土地を譲り渡したことによるという。火災の多い町で,寛永8年・正徳4年・安永4年・同6年・同9年・寛政元年・文化6年・同7年・文政5年・同10年などの記録が残っている(大野郡誌)。なかでも安永4年4月8日野口村太郎兵衛の家から出火した火事は,大野町用留の天災地異ニ関スル綴によると,町方の焼失家数1,071(本家580・御奉公人6・地名子73・借屋389・寺20・庵3)・土蔵247,死人男1・女1,本丸,米蔵などや家中屋敷までほとんどが烏有に帰したという。こののち文化7年土井利寛襲封後に消防組が設けられたが,文政10年の二番上町沢屋長四郎の家からの出火では再び町のほとんどが焼失した(おねば火事)。当町の商業として特筆すべきものは藩によって行われた通商で,内山良休によって始められ,大野屋の名の下に各地に店が置かれた。安政2年大坂に刻煙草を売る店を出し,次第に生糸・織物・茶・漆・麻などを扱い,質屋・金貸まで行うようになった。その後樺太開拓にも関係し,洋式帆船大野丸を建造,樺太の漁獲物は諸国に置かれた御店で販売したという。御店は,箱館・丹生藩織田村・足羽【あすわ】郡大久保村・美濃岐阜・尾張名古屋など各地に置かれた(大野郡誌)。当町では早くから種痘が実施されるなど,西洋医学への関心は高く,一番町には嘉永4年種痘所が置かれた。また,安政4年には病院が設けられ,高井玄俊・土田竜湾が病院総督となっている(同前)。のち明治13年に県立病院分病院が置かれ,同15年の公立大野病院建築費・同寄附金出納録(大野市史)によれば,県立病院から公立病院となっている。大野領諸宗寺方寺領記(大野市史)によれば,神社は,清滝大権現社・社領3石余,篠座大明神社・社領10石,神明大神宮・社領4石余(別当山伏岩本院),春日大明神社・社領1石余(別当文殊院),熊野権現(別当山伏地福院),天神,国生大明神社頭(古金堂),時宗比丘尼寮と見える。なお,「大野郡誌」は,篠座神社・清滝神社・日吉神社・神明神社・春日神社・天満宮・熊野神社・柳廼社とある。寺院は,時宗恵光寺・奥野庵,真言宗大宝寺・願成寺・吉祥院・等覚院,曹洞宗洞雲寺・瑞祥寺・岫慶寺・徳厳寺・曹源寺,臨済宗長興寺,天台宗蓮光寺,日蓮宗妙典寺・円立寺・光玖寺・大雄院,浄土真宗本願寺派誓念寺・応行寺・浄勝寺・勝授寺(恵伝道場)・教願寺・円和寺・長勝寺,真宗大谷派最勝寺・法蓮寺・明源寺・円徳寺・本伝寺・託縁寺,浄土宗善導寺,廃寺には曹洞宗西方寺・崇聖寺,天台宗来迎寺・青蓮寺,浄土宗三光寺,日蓮宗本妙坊,真言宗竜泉寺・徳(健)正寺・光福寺,ほかに持善院・威徳院,また,寛永3年の寺町名寄に見えて現存しないものに専西寺・円教坊・学円坊・北寿坊・円誠坊・明経坊・光明寺があるという。明治4年大野県,以降福井県,足羽県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。「足羽県地理誌」によれば,戸数2,083・人口9,052うち士族は家族とも2,067(男4,486・女4,566),馬83・牛2,物産は,桑葉200貫目・麻6,500束(3尺縄)・漆60樽(2升入)・茶600斤・布蚊帳1,500張・苧綛4万3,500・奉書紬330反・元結2,300束・菜種油230石・荏23石・蝋200貫目・素麺2万6,000丸・煙草12万6,000斤・生糸63箇(但し1箇10貫目)・銅器560貫目・艾52貫目・線銅2,000貫目・銅1万3,800枚・鋳物唐銅火鉢2,400貫目,ほかに鵜飼・灯心・氷豆腐・糸入木綿縞とある。天保14年藩校明倫館が創設され,武士に限らず農民・町民の入学も許可された。弘化4年には夜学も設けられている。その後蘭学所,次いで洋学館を開き全国から人が集まったという。明治初年明倫館は廃校の状態となり,明治6年旧藩邸を仮校舎に普通小学校教育を開始,同7年明倫館跡に有終小学校が設置される。明治6年町の辻々に立てられた高札に,東西両部の名号を廃停し,以後一般に神道と称すべきこととあったためいわゆる護法一揆が起きた。「真宗の里」といわれる当地域の人々にとって真宗寺院との関係や信仰を奪われることは大問題であった。不穏な情勢にあるとの報に接した福井支庁は,首魁と目された竹尾五右衛門・金森顕順を逮捕したが,逃げた竹尾が寺鐘を乱打しこれに呼応して一揆が起こった。県庁出張所・戸長宅・商法会社・商家などが打ち壊された。当局は軍隊を出動させようやく治まった。金森・竹尾・柵専乗・薬師太右衛門・閻魔治助・穴田与八郎が処刑され,多数の処罰者を出した。この一揆は宗教一揆ともいわれるが,世直し一揆の性格を有し,新政府の政策に対する反対運動として把握されるべきであるとする説が強くなっている。一揆は今立・坂井両郡などにも波及し3郡下で3万人もにのぼる大一揆となった。明治初年の町絵図(大野町絵図)などによれば,一番上町・一番下町・二番上町・二番下町・三番町・四番町・五番町・六間町・鍛冶屋町・七間町・町組町・鷹匠町・水落町・代官町・城代町・郡町・葭原町・北山町・後山町・三ノ丸町・柳町・新堀町・清水町・新庄町・荒子町・春日町・本願清水町・明治町・末吉町・後寺町・熊野町・横町・寺町・新町・比丘尼町・荒子町・五ケ町,枝郷として金塚村・篠座村・野口村・西方寺村・清滝村が見える。これらの町村はその後明治6~7年にかけて改編され,西一番・東一番・西二番・東二番・西三番・東三番・西四番・東四番・五番・七間・水落・亀山・清滝・清水【しょうず】・篠座【しのくら】・春日・神明・横・寺の19か町となる。この19か町は同17~22年大野を冠称。明治22年市制町村制施行による大野町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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