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大野郡


郡内の荘園としては牛原荘・小山荘,真名川下流左岸に泉荘,同右岸に富田荘,九頭竜川左岸の谷あいに遅羽荘,羽生川流域に羽丹生荘,味見川と足羽川合流点付近に紙山保,その他大野荘・中夾荘・庄林荘・山田荘などが知られる。大野郡北部の勝山盆地には荘園がみられないが,これは平泉寺がこの地を支配していたからである。平泉寺従儀師最明(斉明)は一族の稲津実澄とともに養和元年9月6日に平氏に背いて活動したが(吉記養和元年9月10日条),寿永2年4月の南条郡燧城合戦では平氏に内通したため,のち木曽義仲に捕らえられて殺された(尊卑分脈・源平盛衰記)。こうしたこともあって幕府は平泉寺を警戒し,寺領の平泉寺寺内領,遅羽荘・羽丹生荘・吉田郡藤島荘には本家として延暦寺無動院が置かれている(門葉記巻141/大正新修大蔵経図像部)。また平安期に平泉寺が勢力拡大を試みた牛原荘の地頭も承久の乱後北条氏一族が任じられたので(醍醐寺文書),平泉寺の行動は制約されたものと考えられる。元弘3年5月に北条氏が滅ぶと,平泉寺衆徒はただちに牛原荘地頭淡河時治を攻撃し,自害させているのは,鎌倉期の反動であろう(太平記巻11)。小山荘の地頭伊自良氏は,弘長年間に中国より渡来した寂円を師として曹洞禅の宝慶寺を創立したと伝えられ,正安元年10月18日には寺敷地を寄進している(宝慶寺文書/大野市史社寺文書編)。また小山荘領家の興福寺浄名院と伊自良氏との間では嘉暦3年以前に下地中分が行われており(京大一乗院文書),今日でも領家方・地頭方を冠する地名がいくつか残されている。南北朝期の延元4年に南朝方の堀口兵部大輔氏政(貞政)が居山(亥山)城を拠点としたと伝えるが,南北朝末期には斯波氏家臣の二宮氏が郡内で勢力を有した。二宮氏は室町期にも大野郡司として重きをなすが,応永21年に加賀国守護職を免じられた斯波満種が大野郡に本拠を移したため,寛正5年から二宮氏と満種,その子持種は大野郡の領有をめぐって争っている(蔭涼軒日録寛正5年10月17日条/大日本仏教全書)。幕府は文正元年8月18日に二宮信濃入道の押妨を退け,大野郡を持種,その子義敏に安堵しており(同前),大野郡は義敏の拠点となった。文明7年には朝倉孝景と義敏が敵対し,2月14日夜には戌山城で,7月23日には井野部で合戦があり,孝景が勝っている(当国御陳之次第/福井市史資料編,朝倉家記所収文書)。こののち孝景の弟慈視院光玖が郡代として支配したが,文明7年の合戦で戦死した二宮氏追善のために延徳2年に時宗道場を建て,これがのちに青蓮寺と蓮光寺になったと伝える(真盛上人往生伝記)。興福寺大乗院尋尊は「大野郡ハ山也」と記すが(大乗院寺社雑事記文明12年8月3日条),そのなかでも特に山深い穴馬地域には鎌倉末期より三河国大町門徒によって浄土真宗が広められていた。享禄5年正月に穴馬城を朝倉景高が攻撃しているのは加賀一向一揆と結んだ穴馬門徒との戦いかも知れない(宇都宮文書,当国御陳之次第/福井市史資料編)。この朝倉景高は大野郡司であり,景高が天文9年に朝倉孝景に背いたのちは子の景鏡が郡司となった。天正元年8月に一乗谷から逃れて大野山田荘六坊賢松寺にいた朝倉義景を討ったのはこの景鏡である。しかし翌2年2月に蜂起した大野郡北袋・南袋などの越前一向一揆によって景鏡と平泉寺衆徒は討たれた。天正3年8月に越前一向一揆を滅ぼした織田信長は大野郡の3分の2を金森長近に,3分の1を原政茂に与えており,また天正8年に柴田勝安が袋田に入って,これを勝山城と名付けたという。柴田勝家滅亡後の同11年5月袋田城(勝山城)には丹羽長秀の重臣成田重政が入り,天正14年には金森長近が飛騨国高山へ移封となり,代わって青木紀伊守・織田秀雄が支配した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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