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木本郷(中世)


 平安末期~戦国期に見える郷名。越前国大野郡小山荘のうち。長承2年6月14日の官宣旨に参議藤原成通の私領のうちに「木本小山村」とあるのが初見(醍醐雑事記/平遺2278)。小山荘が成立すると荘内の郷となり,正安元年10月18日に沙弥知円とその子が木本郷内の地を宝慶寺敷地として寄進している(宝慶寺文書/大野市史社寺文書編)。この寄進状には「小山庄木本郷内宝鏡寺敷地事」として「南限領家方堺」と見え,これ以前に木本郷では下地中分が行われて領家方・地頭方に分かれていたこと,宝慶寺の寺域が当郷内にあったことが知られる。なお,寄進者の知円とは地頭の伊自良氏のことである。嘉暦3年2月9日には領家興福寺浄名院と地頭伊自良知綱の和与により,木本・穴間上下・秋宇・佐々俣の郷は95貫文の地頭請所となり,同年3月27日の六波羅下知状によって確認されている(京大一乗院文書)。こうした地頭請以前に郷は下地中分が行われており,木本地頭方・木本領家方という地名はのちのちまで用いられるようになった。この後の南北朝・室町期には領家興福寺・春日社の支配を離れていたらしく,永享12年4月の小山荘田数諸済等帳案では,木本郷領家方は「御不知行分也」とある(天理保井家古文書)。同帳で郷の農民たちが注進しているところによれば,木本郷領家方は野名・重安名・国末名・国安名・中村名の5名3町30歩と算田(散田)2名3町8反300歩からなっており,年貢米70石6斗6升3合,銭分4,952文,御服12両2分を負担することになっていた。その他仏神田として阿弥陀堂田・篠座神田・阿弥陀堂経田・春日御神田があった。また宝慶寺田2反180歩のうち180歩を春日社代官が山神田として免除したことも見える。戦国期永正元年12月25日の宝慶寺寺領目録に朝倉光玖寄進の「山口銭 木本地頭方分 札銭」「木本地頭領家ヨリ分米拾石」と,徳山了観房寄進の「木本礫田」があり,天文8年10月18日の平泉寺賢聖院領目録に,かつて地頭であった伊自良氏寄進の木本村3石が見える。朝倉光玖寄進の木本地頭領家方10石の実際の収納状況を記す永禄12年6月の宝慶寺寺領目録によれば,寄進分10石は木本地頭方5石,同領家方5石と等分されており,それぞれの年貢納入者のうち,朝倉氏給人とみられる川合・小沢・篠島氏などの分は農民が分割納入していた(宝慶寺文書・平泉寺文書/大野市史社寺文書編・同史料総括編)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7331158