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飯田村(近世)


江戸期~明治8年の村名安曇【あずみ】郡のうち姫川上流の山間地に位置する西部は北アルプス連峰の山麓,東部は姫川を挟んで水田地帯が広がる天正10年7月6日,上杉景勝は新恩として「飯田・嶺岸・千国六百貫文之所」を西方房家に宛行った(歴代古案/信史15)次いで同年11月21日には小笠原貞慶は竹内縫左衛門に「飯田之内渋田見分并総高分日室之内拾貫文」を宛行った(御証文集/同前15)江戸期は松本藩領大町組に属する村高は,「慶長改帳」369石余,「正保書上」298石余,「元禄郷帳」145石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに264石余松本藩では慶安2年に当地方の検地を実施しているが,当村と隣村飯森村は凶作か洪水のために実施されず,承応2年になって検地が行われた新田開発により,慶安年間に野平村・大出村・嶺方村を分村(信府統記)また,こののち堀之内村も当村から分村したと考えられるが,不詳享保20年の家数71・人数411,馬29・牛6米作中心であったが,耕地・生産量は少なく,畑では主に麻を産したまた,千国街道が村内を通り,当村も荷継宿として栄え,農間には駄賃稼ぎ・歩荷に従事する者も多かった享保年間頃には,枝郷として白沢があった神社は神明社がある明治4年松本県を経て筑摩県に所属同7年の戸数75・人口352,馬122同年四城学校が開校同8年神城村の一部となる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7337824