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片桐村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。伊那郡のうち。はじめ幕府領千村氏預り地,元和3年飯田藩領,寛文12年からは幕府領。「天正高帳」に見える片桐領の高は2,554石余,その中は上片桐649石余,南田島・古城448石余,北田島406石余,新井・中村つるへ484石余,葛島337石余,かこまや・小平・竹ノ上228石余に分けられている。また天竜川対岸の小和田は,同帳では大島領とされ,その高242石余と見えるが,やがて片桐村に含められた。江戸期に入ると,これらは葛島村・田島村・前沢村・小平村・七久保村・上片桐村,および伊那街道の宿場片桐町にまとめられ,片桐7か村と呼ばれた。その成立は,幕府領となった寛文12年以降という。ただし,江戸期の郷帳類では総称の片桐村で把握され,その高は,「正保書上」では片切村と記され2,780石余,「元禄郷帳」4,338石余,「天保郷帳」5,074石余,「旧高旧領」5,073石余。柿・鳥もち・漆などの年貢もあったが,条件の悪いところでは竿先免・猪鹿喰免などが行われた。明暦2年開削に着手された横沢用水路は,片桐村北部の大半を灌漑するほどで,これにより急速に開発が進んだ。農民の最大の苦しみは,凶作と河川の氾濫による水害であったが,松村理兵衛は天竜川の水害から田島平の農民を守るために私財を投げうって治水に着手,洪水のたびごとに決壊と補強を繰返し,松村3代58年間に及ぶ大土木工事の末,文化5年理兵衛堤防が完成した。寛文12年幕府領になった際,初代代官は飯田藩主脇坂氏の御茶屋御殿をそのまま陣屋とし,駿府陣屋の支庁として幕府領を支配,延宝5年飯島陣屋が新設され,6年間に及んだ片桐陣屋は引き払われた。元治元年に筑波山で義兵を挙げた水戸浪士の一行は,同年11月23日に片桐宿に入った。片桐宿問屋を本陣として入ったのは,首領武田耕雲斎以下主力500人であった。明治元年伊那県,同4年筑摩県に所属。同5年上片桐・七久保らの連合で,瑞応寺に精研学校を設置。同8年枝郷・小村の合併が進められ,7か村のうち葛島は南向【みなかた】村へ合併し,残り6村はその別を廃し,改めて片桐村と称した。同年の戸数895・人口4,940であった。同14年七久保村・上片桐村を分村。同22年市制町村制施行による片桐村となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7338712