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借馬村(近世)


江戸期~明治8年の村名安曇【あずみ】郡のうち大町村から北上する糸魚川街道に沿った平坦な鹿島川扇状地に位置する大沢寺沢・駒沢・しょうぶ沢の湧水が自然流として借馬の原野を潤していたが,中沢・上堰が開削されて当村が誕生した東方農具川辺の水田からは,弥生以降7世紀までの住居跡が多数発見されている古代交通路の駅【うまや】の存在を物語る馬口・追分などの地名が残る借馬の地名は,「カレ」「カレ作」などの地名が付近に分布していることから,「カレの間」から「借馬」に転訛したものと思われる(大町市史)天正17年小笠原貞政が借馬の左近に鷹打ちによる諸役を免除し,獲物を差し出すように命じた黒印状に「軽馬之左近」とあるのが初見松本藩領大町組に属する村高は,「慶長改帳」447石余,「正保書上」454石余,「元禄郷帳」では借ル馬村と見え同高,「天保郷帳」481石余,「旧高旧領」534石余貞享4年大町組宗門改人数寄帳(県史近世史料5-1)によれば,人数432うち男228・女204元文4年大町組家数村別帳(同前)では,家数54うち高持軒役家32・高持無軒役17・無高水呑5安政2年安曇筑摩両郡村々明細書上帳(同前)によれば,家数68・人数672枝郷に駒沢村と鹿島がある鹿島は本村から10km西北,鹿島川右岸,小熊山と白沢天狗岳に挟まれた小集落で,一説には平家の落人集落ともいう寛延3年~宝暦2年鹿島入刈敷山の入会権をめぐって公事が起こり,本村と枝郷の骨肉相食む抗争が展開された鹿島の家数増加に伴う刈敷山の荒廃が問題となったが,藩の裁許により鹿島の家数を11軒以上に増やさず,山ノ口前に草を刈らないこととされた(曽根原家文書)同村中央に位置する曹洞宗海岳院は,仁科三十三番札所第12番明治初年までに駒沢村を合併したと思われる明治4年松本県を経て筑摩県に所属同8年平村の一部となる




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7338939