100辞書・辞典一括検索

JLogos

18

仁科荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。安曇郡のうち。嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録に,室町院領の一つとして「〈信乃〉仁科庄〈親王分・資遠〉」とある(竹内文平氏所蔵文書/信史4)。仁科御厨は,承久の乱の際仁科盛遠が京方について越中国で戦死したため,一旦幕府に没収されたものと推定され,経緯は不明であるが,その後室町院領になっていた。鎌倉末期嘉暦4年3月目の関東下知状の10番諏訪社上社5月会分に「右頭千国小谷地頭等仁科庄遠江入道流鏑馬三浦介入道知行分」と見える(矢島正守氏所蔵文書/諏叢30)。南北朝期建武3年11月日の市河親宗軍忠状には「当国守護代小笠原余次兼経舎弟与三経義,符中并仁科・千国口,属于発向之間御手」とあり,信濃守護代小笠原兼経および経義に属して当地などに発向していたことが知られる(市河文書/信史5)。下って,寛正5年仏歓喜日の年紀を有する「京城万寿禅寺記」によれば,万寿寺不知行の地として「信州仁科庄」が見える(信史8)。戦国期の天文22年と推定される8月9日の武田晴信条目によれば,水内【みのち】郡小川の大日方美作入道・同上総介に宛てて,「一,飯田・雨降間之事,仁科庄作江種々加異見相渡候」と伝え,また年月日未詳の武田晴信判物では,同じく両人に対し,当荘付近に越後の上杉軍が侵入した際に出勢したことを賞している(大日方文書/上水内郡誌)。当地にあった寺院としては,明徳2年9月28日書写の西大寺末寺帳に「〈仁科〉盛興寺」が見え(極楽寺文書/神奈川県史資料編3上),天正10年3月18日の年紀を有する叡山文庫蔵の十行出仮奥書に「信州仁科盛福寺竹之坊」が見える(埼玉県史資料編9)。その他,文明11年5月12日,「信州仁科西山五滝山之住僧朝蓮」が岐阜県美濃市大矢田神社蔵の大般若波羅蜜多経巻第217を書写し(岐阜県史史料編古代中世2),天文24年2月12日「仁科桜井住」の僧義栄が穂高神社所蔵の三宮穂高社御造営定日記を執筆している(信史12)。永禄12年11月18日武田信玄は井口帯刀左衛門尉に「仁科領五貫文之所」を宛行い(井口文書/信史13),天正8年卯月20日武田勝頼は「一,仁科之内坂之下 八貫文 一,同千国東寺地分 四貫文」などを倉科朝軌に安堵している(倉科文書/信史14)。戦国期当地付近は仁科領とも称され,諏訪社上下両社の造営役を負担していた。長享2年の春秋宮造宮次第には「一五間 〈仁科之内〉大和田〈松川共ニ〉〈今〉竹居源右衛門尉」とあり(信叢2),永禄9年9月晦日の諏方社下社造宮改帳では,大祝と高木喜兵衛との間で「仁科之内渋田見・滝沢両郷」より出す造宮銭のことで相論があったこと,その他「仁科領之内以千国・小谷両郷」が春宮の,「仁科之内屋原之庄」が秋宮の造官銭を負担していたことが知られる(諏訪大社文書/信史12)。また天正6年の下諏訪春秋両宮造宮帳によれば「仁科内古厩・耳塚両郷」が春宮の,「仁科之内 大穴 中之郷 鵜山 渋田見 滝沢」の5か郷が春秋両宮の,「仁科内 大和田 松川之郷」が秋宮の造営を負担しており,同年の下諏訪春宮造宮帳では「仁科之内大穴・中之郷・鵜山・渋田見・滝沢」の5か郷が,同年の下諏訪秋宮造宮帳では「仁科之領矢原之庄之内古厩・耳塚・細野・池田・正科・細萱・柏原」の7か郷と「仁科領矢原庄之内,古厩・耳塚両郷」が,各々春秋両宮を造営している(信叢2)。戦国期仁科領と称された地域は,北は現在の小谷【おたり】村から,南は現在の穂高町・豊科【とよしな】町に及んでいた。天正9年の「信濃国道者之御祓くばり日記」によれば,「にしなの分」として21名,「にしな分」として12名,計33名の伊勢神宮(内宮)の檀那の名があげられている(信史15)。当地の中心は現在の大町市付近であり,糸魚川~松本間を結ぶ街道の要所として越後上杉氏側では信濃に通じる街道を仁科口と呼んでいた。天正10年3月24日の上杉景勝朱印状では「仁科口」における越後山寺院主の戦功を賞し(山寺文書/信史15),また景勝の重臣直江兼続より根知城主西方房家宛に出された卯月29日の書状にも「仁科筋人数被遣由二候」と記されている(歴代古案/同前)。その後,天正18年9月4日,石川康正が「〈仁科郷〉大沢寺」および「〈仁科郷〉成就院」に禁制を掲げている(大沢寺文書・成就院文書/信史17)。なお,大町組宮本村検出帳付載の永禄9年2月吉日の年紀を有する水上彦助等連署状には「仁科六拾六郷惣社神明宮」とあり(信史12),この仁科66郷は,およそ現在の大町市から北安曇郡の全域に及んでいる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7340857