100辞書・辞典一括検索

JLogos

31

松代藩(近世)


江戸期の藩名外様中藩居城は埴科【はにしな】郡松代天正10年武田氏は織田信長によって滅ぼされたため,その支配下にあった埴科・更級【さらしな】・水内【みのち】・高井の奥信濃4郡は信長の部将森長可の支配下に,本能寺の変後は越後の上杉景勝支配下になった慶長3年景勝が豊臣秀吉によって会津へ移封されると,豊臣系の関一政が水内郡の飯山城3万石,田丸直昌が埴科郡の海津城(のち松城,さらに松代城と改城)4万石の城主として移封された4群のうち残り約5万5,000石は,豊臣氏の直轄領となったしかし秀吉の死に伴い,同5年には関・田丸の両氏は美濃へ移封され,代わりに徳川家康系の森忠政が約13万7,500石で海津城へ入封した忠政は同7年に4群の検地を行い,19万5,000余石を計上した(信叢)同8年忠政は美作津山へ移封され,家康六男松平忠輝が下総佐倉より14万石で入封した同15年忠輝は越後福島へ,さらに同19年越後高田へ移り,奥4郡と越後とを合わせて60万石を領有した元和2年忠輝は改易となり,常陸下妻から松平忠昌が12万石で入封した忠昌は同4年越後高田へ移封され,常陸下妻から酒井忠勝が10万石で入封した忠昌まで,海津藩または川中島藩,忠勝から松代藩と呼ぶのがふさわしい忠勝も同8年には出羽鶴岡へ移され,そのあとへ上田から真田信之が10万石で入封し,上野沼田の3万石と合わせ13万石の信濃最大の大名となった真田松代藩の成立である初代信之の統治は35年間にわたったが,この間に松代藩政の基礎は築かれた2代信政の死後,その後継者をめぐって信政嗣子幸道と従弟の沼田城主信利との間に争いが生じたが,3代は幸道に落着したこの幸道時代の寛文4年,松代藩は185か村・10万石を領有したが,その内訳は水内郡内87か村・3万9,869石余,更級郡内67か村・3万5,138石余,高井郡内17か村・1万61石余,埴科郡内14か村・1万4,930石余であり,内高は11万6,883石余であった内高の最高は天保6年の12万3,715石余であったが,全領規模の検地は寛文6年の指出検地のみで,あとは散発的に行われた地押検地であったなお藩財政は3代はじめ頃までは比較的裕福であったが,3代幸道のとき江戸城普請手伝・高田検地・日光普請・高遠【たかとお】検地・善光寺普請・東海道普請手伝・朝鮮使節饗応・松本城請取などのたび重なる幕府の課役で悪化したさらに享保2年の松代大火,寛保2年の千曲川水害(戌の満水)で藩財政は悪化の度を加え,幕府からその都度1万両を借りるほどの窮状をさらけだしたこのため4代信弘の跡を継いだ5代信安は藩士の半知を実施せざるをえなくなった寛延3年には扶持米支給がとどこおり,藩内動揺が生じたまた江戸で召抱えた田村半右衛門の施政に反発して,同4年には山中に田村騒動といわれる百姓一揆が起きた宝暦7年6代幸弘のとき勝手係家老恩田木工の年貢の月割上納などの藩政改革が行われたが,成功したとはいえないまた天明飢饉では,山中の村々は収穫皆無のところもでたこのようなとき藩は貸付金の元利取立てを行ったため,山中村々の農民は所々の酒屋に無心し,その金で年貢や拝借金の返納を企てて一揆を起こした(天明山中騒動)7代幸専のあと,松平定信の次男幸貫が8代に迎えられ,文武学校(藩校)の創設,佐久間象山の重用,西洋文明,領内産業の奨励などの藩政改革を行ったが,これも成果をあげたとはいえないまた弘化4年には善光寺大地震による災害があり,藩債が10万両に達し,藩財政はさらに窮乏化した天保12年幸貫は定信の次男であったためか,松代藩は外様ではあったが老中(海防係)に就任し,諸大名に海岸防備の大砲の鋳造などを命じたりしたが,老中筆頭水野忠邦の失脚とともに老中を辞任した9代幸教を経て10代は四国宇和島藩主伊達宗城次男幸民を迎えた幸民は信濃ではいち早く倒幕派にふみきり,戊辰戦争では飯山や長岡へ藩兵を派遣した藩の支配機構は,藩主のもとで家老が藩政全般を掌握し,その下に寺社奉行・職奉行・郡奉行・町奉行などが置かれたなかでも職奉行・郡奉行は民政関係の要職で,前者は主として裁判・警察関係,後者は収税関係の仕事を行った郡奉行の下には代官・手代がいた(天保14年幸貫の改革で郡奉行は職奉行も兼ねた)この手代が藩領4群の本田195か村,本田の枝村899か村,新田村135か村を支配した家臣団総数は1,900人前後で,このうち260人前後は知行取であった知行取と蔵米取家臣の比率は約14対86で,知行取家臣は藩政初期から版籍奉還まで存在したが,地方知行権の範囲はきわめて限定されていた家臣の中でおもだった人々をあげると,戦国期から織豊期に活躍し真田氏を封建大名にのしあげた矢沢頼幸,宝暦改革をすすめた恩田木工民親,家老で朱子学者の鎌原桐山,佐久間象山,その友人山寺常山,幕末期勤王倒幕派に藩論を導いた長谷川昭道らがあげられる参府は毎年6月で,江戸城中では帝鑑間を詰所とした江戸上屋敷は溜池,中屋敷は赤坂南部坂,下屋敷は深川小松町と谷中三崎にあった(文政武鑑)明治4年廃藩置県により松代県となる




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7341591