千疋村(近世)

江戸期~明治30年の村名。山県郡のうち。はじめ信濃飯山藩堀氏領,のち寛文元年から天和3年まで上野館林【たてばやし】藩領となるほかは幕府領。村高は「慶長郷牒」「正保郷帳」426石余,「天保郷帳」「旧高旧領」677石余。寛保3年の村明細帳では67戸・273人・馬21匹・牛1匹,田37町6反余・畑14町1反余・宅地2町5反余。文化12年の村明細帳では84戸・318人・馬18匹。早稲6分・晩稲4分を栽培し,肥料は芝草のほかに油粕・灰・酢粕・酒粕を利用。明治2年の村明細帳では82戸・352人・馬13匹,田33町2反余・畑18町5反余(うち屋敷2町5反余),洞方は溜池懸りで旱損しがち,その他は千疋用水を利用するが,武儀川筋の7番目の堰で取水のため,日照りの年は旱損した。寺院は松林寺・陽徳寺。神社は8社。明治4年岐阜県に所属。「町村略誌」によれば84戸・412人・馬37匹,田62町4反余・畑12町余(民有地),米688石・大麦216石・実綿93貫・製茶120貫・繭96貫・煙草40貫を産し,鮎4,680尾を漁した。明治30年千疋村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7344966 |