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碧海荘(中世)


平安末期~室町期に見える荘園名三河国碧海郡のうち矢作【やはぎ】川中流の沖積低地で,豊田市南部の旧上郷町から岡崎市西・南部の旧矢作町・六ツ美村に比定される三河国所出の犬頭糸について記した「兵範記」仁安3年7月6日条に「近年以後三条女御々領碧海庄立券之中」とあり,犬頭糸60勾を年貢とした三条女御とは鳥羽天皇女房で斎宮研子母の参議藤原家政女とみられ,鳥羽院政期の寄進地系院領荘園の一例寄進者は不明であるが,あるいは藤原氏系熱田大宮司一族か荘名は郡郷名によるものであろう承久の乱後足利義氏が地頭となり(瀧山寺文書/岡崎市史6),子泰氏・孫家氏(斯波氏祖)を相続し,鎌倉期を通じて斯波氏が地頭職を保持したとみられる禅僧義堂周信の詩の序に「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」とある(空華集/大日料7‐13)領家職は,永仁3年8月日の碧海荘米配分状案では熊野社領で,占部・中・村高・下青野・宇禰部・薬師寺・橋良(柱)・津々針(筒針)・下渡・長瀬・宿石神・小針・榑戸(暮戸)・南小(尾)崎・牧内・上戸・大友の17郷から御供米409石5斗が納入されていた(紀伊続風土記附録十四本宮社家二階堂蔵/鎌遺18898)他方元弘3年の内蔵寮領等目録には「碧海庄犬頭糸七十七両・用途二百文……持明院中納言家知行之」とあり,これは本家職か(宮内庁書陵部所蔵文書)室町期にはさらに領有関係は錯綜する年月日未詳の観勝寺寺領目録に宣政門院(後醍醐皇女懐子,光厳後宮)寄進地として碧海荘内上戸・中曽禰(中園)・牧内・市摩・本一色が見え(大覚寺文書上),建武4年5月13日に松殿(中山)家領として「碧海庄三木・今一色」が安堵されている(堤文書/岡崎市史6)その後嘉吉元年11月には近江葛川明王院領とみえ,享徳2年9月15日に「碧海庄領家方」が同院領で,他方地頭代官島田参河守の名が見えるので(国会図書館蔵明王院文書/葛川明王院史料),それ以前に下地中分が行われていたこの地頭方が寛正4年に宗成喝食(斯波松王丸)へ「助成之所領」として将軍義政から与えられた「三河国近江庄」で(蔭涼軒日録寛正4年12月20日条など),それまでは将軍料所ということになる荘内には前出の各郷のほかに,浄土真宗本願寺派の絵像裏書類に見える中之郷・赤渋・和田・牧御堂・中島・矢作・渡刈郷があった




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7353985