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大成荘(中世)


 平安末期~室町期に見える荘園名。尾張国海西郡のうち。嘉承元年8月14日堀河天皇宣旨案に,「(東寺)末寺伊勢国多度神宮寺所領尾張国大成庄」と見える(東寺文書/佐織町史資料編2)。同寺領については,延暦20年多度神宮寺伽藍縁起并資財帳に「海部郡十三条馬背里壱町参段」とあることから(多度神社文書/同前),当荘はこの地をもとに形成されていったものと推定される。多度神宮寺は嘉祥2年に東寺末寺とされ,以来東寺長者が知行したが,建治3年4月日東寺長者袖判置文(案)によって,東寺八幡宮神用として当荘の年貢20貫文が定められ,東寺執行の知行とされた(東寺百合文書/同前)。その後弘安8年に至り,当荘年貢のうちをもって東寺供僧の進止する西院御影供の捧物などにあてると定められた。しかし,荘務権は依然として執行にあったので,執行より供僧への捧物料足納入をめぐる争いが絶えなかった。そこで延文4年12月3日栄済大成荘領家半分所務職避状によって,当荘の「下地半分所務職」が執行から供僧に渡すこととされた(同前)。一方,当荘の地頭については,これらに先立つ正和3年9月9日六波羅御教書案に「同庄地頭領」と記されており(同前),鎌倉末期には東寺との間で下地中分が行われていたと考えられる。南北朝期以降,現地は守護被官人らの押さえる所となり,東寺側は彼らを預所に補任して年貢を確保しようとした。至徳2年6月13日室町幕府管領斯波義将内書案には「寺領号雖無子細候,寺用到来無其実候哉」と記されている(同前)。東寺の懸命の画策にもかかわらずこの頃より当荘は東寺の支配から離れていった。当荘は木曽川左岸に立地するため,しばしば甚大な水害を受けた。康永元年8月日大成荘所務条々事書に「延慶大風雨・元徳洪水」と記され,また延文2年執行隆盛書状にも「大成庄洪水事,雖毎年式候,当年破散々事候」と記され,さらに康暦2年10月16日大成康経書状に「三ケ年之間水損仕候」とある(同前)。年未詳5月16日の善見書状に「いちゑのしやうのちとう……つつみのはいふんのさいそくを,大なりのちとう・りやうけへきりてわりつけ候間」と見え,隣接する櫟江荘などとともに堤が築かれた(同前)。同状によると,築堤すべき地として「すゝめのもり・かつらき」があげられている。元亨4年11月15日,貞和2年10月8日,観応3年9月25日の大成荘年貢目録によれば,当荘は大成郷・韮尾郷・塩田郷などによって構成されていた(東寺百合文書・阿刀文書/佐織町史資料編2)。これらの郷は,それぞれ近世の外大成村・内大成村・二老村・塩田村と推定され,荘域は現在の木曽川の川底および雀ケ森近辺以北の現立田村から八開村の一部と考えられる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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