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海東荘(中世)


鎌倉期~戦国期に見える荘園名尾張国海東郡・中島郡のうち海東上荘・海東中荘・海東下荘から成る寿永3年4月22日の源頼朝下文案に「尾張国海東三箇庄」と見え,前記三荘をさす(久我家文書1)貞応元年8月15日の北条義時書状に「蓮華王院領尾張国海東庄」とあり,当荘の本家は京都蓮華王院であった(同前)当荘の年貢は同院の念仏用途や惣社祭用途に宛てられ,南北朝期の暦応2年までその支配が確認される(同前)領家職はもと平頼盛が有していたが,源頼朝に没収された後,前述寿永3年下文によって再び頼盛に安堵されたその後頼盛息男光盛を経て,寛喜元年6月日の光盛処分状案により,光盛四女三条局に上荘・中荘,五女冷泉局に下荘がそれぞれ相伝された下荘領家職のその後は不詳であるが,上荘・中荘の領家職は,文永2年頃に久我通忠の後室に譲られ,さらに正応2年2月27日の譲状によって,彼女から久我通基へ譲られて久我家領となった(同前)一方,当荘の地頭については,「尊卑分脈」貞嗣卿孫の千秋信綱(有範)に「建久八年尾張国海東地頭職給」とある前述貞応元年の北条義時書状には「先地頭有範」とあり,建久8年以降千秋信綱が地頭で,この時点では前年の承久の乱をうけて別人が地頭に補されていたことを示す寛喜2年2月20日の小山朝政譲状によれば,荘内太山寺郷を除く三ケ荘地頭は朝政から嫡孫長村に譲られている(小山文書/大日料5‐5)長村が地頭の時,幕府は裁許して三ケ荘公文職は領家として補任し,公文は領家雑掌と地頭の所勘に従うべしと定めた一方,上荘内太山寺郷地頭職は,貞和2年6月17日足利直義下知状案などによれば,正安年間以前に村田政盛が得て,正和元年に領家久我家への年貢未進をめぐる相論を生じており,貞和2年の段階では政盛息男朝光に伝えられているこの過程で,久我長通は同郷の預所職に源氏女を補任し,さらに彼女より同職が西山法華山寺に寄進された元弘3年8月15日の後醍醐天皇綸旨により,下荘地頭職は久我家家司でもある竹内仲治に与えられた上荘地頭職(太山寺郷を除くか)と中荘地頭職(小山長村跡)は,それぞれ元弘3年11月19日,延元元年3月30日の後醍醐天皇綸旨により,「大夫将監」(大江広元流海東広房の一族か)に与えられたこのうち,下荘地頭職のその後の動向は不詳である上荘についてみると,康永元年8月21日足利直義下知状によれば,上荘内松葉・新屋両郷地頭職は建武4年以来平賀忠時が得ており,康永元年段階で久我家と相論を生じている中荘地頭職については,観応2年6月19日の足利義詮下知状などによれば京都真如寺の得る所となっていた(久我家文書1)観応2年2月7日,足利尊氏袖判下文によって,「海東大夫将監跡」(上庄内松葉郷等の地頭職か)は,土岐頼重に与えられた(土岐文書/岐阜県史史料編古代中世4)一方,延文3年正月16日の足利義詮御判御教書により「海東庶子跡」が天竜寺に与えられた(天竜寺重書目録/大日料6‐21)このため,土岐氏の現地押領と幕府への働きかけを生じ,結局貞治3年に至って「伍百貫下地」を土岐頼高が天竜寺に打渡し,同5年には頼高に対して「天竜寺管領地」を除く分が安堵されるという決着をみた至徳4年閏5月21日の足利義満袖判天竜寺土貢注文案,文明17年3月21日の足利義政袖判天竜寺土貢注文に「一,海東 銭伍拾参貫文」とある(天竜寺文書/神奈川県史資料編3上)土岐氏の支配した上荘内の地は,応永年間以降海東松葉荘(松葉荘とも)と称され,土岐氏から久我家への年貢納入が寛正3年9月6日の良光請文に至るまで確認される一方,中荘地頭職を有した真如寺は,中荘内檜田里などの田畠をめぐって永和・康暦年間に久我家との相論を生じ,久我家は,これへの対抗のためか中荘領家職の一部を中荘内光明寺へ寄進した応永23年11月27日の等持寺都管乾綱請文,嘉吉3年10月13日の等持寺都管増潔請文によれば,等持寺が久我家代官として「海東中庄地頭御年貢」30貫文を請負っている(久我家文書1)領家久我家としての上・中両荘の現地直接支配はこの頃までに消滅したと考えられる「康正二年造内裏段銭并国役引付」には,「等持寺領〈尾張国中庄段銭〉」とあり(群書28),文明14年かと推定される9月26日付の守護代織田敏定宛伊勢貞宗書状案では,「等持寺領尾州中庄之事」につき,寺家代官に沙汰し付けるよう命じられている(蜷川家文書1/大日古)その後も現地では守護被官人の押領が続き,等持寺が幕府への提訴に際し相国寺僧録を介した関係上,相国寺も中荘の得分を得た相国寺の中荘への関与は「鹿苑日録」天文9年8月3日条に至るまで確認される現在の稲沢市南部・美和町北部・甚目寺【じもくじ】町・大治【おおはる】町北部に比定されるこのうち,上荘は西条村(現大治町)が「松葉の庄の本郷」と記されることから(尾張志),大治町北部と甚目寺町南部,中荘は稲沢市南東部から甚目寺町北部・美和町北部一帯に比定される下荘については未詳であるが,稲沢市南部と思われる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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