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日置荘(中世)


 平安末期~室町期に見える荘園名。尾張国海西郡のうち。「台記」久安6年7月8日条に「禅閤賜鴨院地・日置荘」とあり,同日藤原頼長が当荘を父忠実より譲られたことが記されている。平安後期と推定される年月日未詳の大井・茜部荘等田数注文案に「皇太后宮御領 尾張国 日置御庄六十町〈加去年新作廿余丁〉」,年未詳2月28日法印範恵書状案に「皇太后宮御領〈日置御庄〉」とあり,一時皇太后宮領であったことがわかる(東大寺文書/佐織町史資料編2)。次いで「吾妻鏡」文治3年10月26日条によれば,同日源頼朝が京都六条の左女牛若宮八幡宮へ寄進した所領の1つに「尾張国日置領」があり,これは康永2年10月日六条若宮領文書正文目録に見える「一通 同状(関東右大将寄進状)〈文治三年十月廿六日 尾張国日置領事〉」と符合する(若宮八幡宮文書/芸林27‐4・5)。また,文保2年12月23日関東御教書は,生出島・六丈島と称する成洲をめぐって海東郡内「富吉庄東一色地頭代」と境相論を生じた事情を記しており,当荘の西に富吉荘が隣接していたことを示している(壬生家文書1/図書寮叢刊)。「尊卑分脈」によると,南北朝期には若宮別当職を醍醐寺座主三宝院賢俊が有しており,当荘は同院の管領するところとなった。「賢俊日記」貞和2年3月20日条(一宮市史資料編6)に,「宗快法眼今日下向日置庄」,応永25年7月10日足利義持書状(醍醐寺文書1/大日古)に「当門跡領……尾張国日置庄内西野高村」とあり,さらに文安6年4月11日三宝院門跡管領諸職所領目録(同前)に「六条八幡宮領」の1つとして当荘が見える。また「満済准后日記」応永21年12月27日条には「日置庄地下代官事」と見え,能寂に当地代官を申し付けている。なお,応永13年と推定される11月19日一乗院良兼書状写には,「春日社領尾張国日置庄領家職事……殊当社大般若経転読之料所候」とあるが(東院毎日雑々記/大日料7‐8),春日社領としての経緯は詳らかでない。室町期と推定される年月日未詳の六条八幡新宮放生会用途注進状によれば,当荘は,絹・糸・畳・紙・布・銭を負担している(石清水文書6/大日古)。「満済准后日記」応永32年8月16日条は,「今度依大洪水庄家水損,仍絹等無沙汰間」とあり,洪水により当荘からの同社放生会用途の備進が遅れた事情を記している。また端裏書に応仁2年閏10月4日とある醍醐寺方管領諸門跡等所領目録に左女牛若宮別当職の荘の1つとして見える(醍醐寺文書1/大日古)。明応2年9月28日付日置八幡社所蔵懸仏銘に「日置庄八幡宮」とあり,同社が当荘内に属したことが確認される。「信雄分限帳」には,「日置郷」「へきノ郷」とあり,また天正15年9月15日万徳寺年貢帳にも「日置 七郎左衛門尉殿」とある(稲沢市史資料編6)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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