鎌ケ地新田(近世)

江戸期~明治22年の村名。伊勢国桑名郡のうち。長島藩領。寛永16年尾張国知多郡の農夫早川藤蔵が西鎌ケ地の字清吉・畑割を開発,同じく知多郡の農夫大橋平左衛門が東鎌ケ地の字平左衛門・本村・畑新田を開発した百姓請負新田。また寛永17年に加路戸川中の葭山を又木村の農夫三郎治が開発して三郎治新田ができ,当村に付属。同新田はのち水害で亡所となり,宝暦治水工事で加路戸~田代新堤構築の土取場となった。その後再開発されたが,明治20年から木曽川河川改修工事によって消滅し,木曽川敷となった。村高は「元禄郷帳」165石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに505石余。なお「天保郷帳」では三郎治新田が独立して144石余と見える。安政元年の家数25・人数124(長島領邑新田石高家数調)。産土神は東鎌ケ地に鎌ケ地稲荷社,西鎌ケ地に鎌ケ地神明社がある。稲荷社は宝暦7年加路戸川の流れ宮を拾い上げて祀ったもので,その境内社の御鍬社は安政4年当村の破堤により葭ケ須輪中が水没した際に上流から鍬型の神霊が漂着し,これを葭ケ須輪中の総地主が祀ったもの。神明社は天保12年葭ケ須神明社を分祀した。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同5年の戸数27・人口141。同8年地租改正調査による反別47町余。同16年の戸数26・人口140(長島町誌)。同22年伊曽島村の大字鎌ケ地となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7363960 |