源緑新田(近世)

江戸期~明治22年の村名。伊勢国桑名郡のうち。幕府領。上源緑・下源緑に分かれ,上源緑は文政2年尾州津島の堀田理右衛門と外平喜新田の白木真弓により共同開発され,下源緑は文政7年笠松代官所の郡代松平左近により御手付進野延左衛門,山本藤十郎を出役として開発された。村高は「天保郷帳」「旧高旧領」ともに237石余。その後源緑山新田が開発された。入植は文政7~8年よりはじまり,開発者白木真弓も移住した。同時期に開発された藤里新田とともに一連の堤防を築造した。また同時期に再開発された白鷺・松永の両新田とともに源緑曲輪と呼ばれた。万延元年3回の大風高波により大被害を受けた。木曽川の横満蔵との間に渡船場が設けられていた。産土神は輪中内で源緑輪中神社を祀る。寺院は真宗大谷派柏林寺。同寺は江戸末期に内藤大信が村道場として開き,明治13年寺号が免許された。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同8年の地租改正調査による反別38町余,同16年の戸数42・人口236(桑名郡志)。同20年よりの木曽川改修により木曽川堤引堤白鷺新田とともに潰れ地が多く発生し,源緑山新田はほとんど消滅した。明治8年源緑学校を設立。同22年木曽岬【きそざき】村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7364641 |