横満蔵新田(近世)

江戸期~明治22年の村名。伊勢国桑名郡のうち。幕府領。宝暦7年白木清太夫・大橋又左衛門・太田平八が共同して開発した町人請負新田。独立して横満蔵輪中(曲輪)を形成し,以後南方の伊勢湾に向かって開発されていく新田の橋頭堡的役割を果たした。村高は,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに189石余。開発年代は不明であるが,輪中の西堤外の葭山西枕のうち長徳新田36石余が加えられた。伊勢湾に突出した独立輪中であるため,水害が多く,寛政年間に美濃郡代鈴木門三郎が輪中北隅に助命壇を築いた。後に村民はその徳を謝し鈴木社を祀った。安政元年の大地震や万延元年の3回の大風高潮には大被害を受けた。産土神は安永3年に神明社を勧請したが,明治44年伊曽島神社へ合祀した。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同8年の地租改正調査による反別53町余。同16年の戸数44・人口245(長島町誌)。同22年伊曽島村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7368348 |