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後三条(中世)


 鎌倉期から見える所領名。犬上郡のうち。後三条院勅旨田・後三条保などと表記される。本家は青蓮院。建暦3年2月の「慈鎮所領譲状案」に,「六条法印寄進庄」として「後三条院田」が見える(鎌遺1974)。その後天福2年8月の「滋源所領注文」には,「大成就院領 後三条勅旨田 所当百四十石 内十石預所」とある(鎌遺4687)。鎌倉期には,犬上東西郡鎮守多賀社の祭礼にあたり,郡内17か郷をあげ,御家人が祭使役・郷民が馬上役を勤めることになっていたが,後三条保は勤仕しておらず(鎌遺10507),また嘉暦元年12月の「関東下知状」によって,青蓮院領後三条保住人定頼なる者が,馬上役は凡下の輩の勤仕するもので,荘官らの勤めるべき筋合はないと主張して,多賀社神官兼御家人の多賀基綱と争っていたことがわかる(多賀神社文書19)。南北朝期には,当所領は一条局(今参局)を領家とし,青蓮院に2,000疋の本家役を納入する定めであったが,滞納したため,建武4年訴訟となり,暦応2年本家役年貢の督促をうけ,文和3年に至ってもなお同じような督足が続いている(荘園志料)。一方文和2年足利義詮は,近江国北部に散在する梶井宮門跡領への佐々木五郎左衛門尉(山内定詮)の違乱に対し,御判御教書を下してその停止を命じているが,これにそえられた「違乱所々注文」の中に後三条院勅旨田が見える(菅浦文書771)。青蓮院領後三条勅旨田と梶井宮門跡領後三条勅旨田との関係は不明。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7370312