100辞書・辞典一括検索

JLogos

34

針畑荘(古代)


平安期から見える荘園名高島郡のうち慶長5年,朽木【くつき】元綱が徳川家康から本領安堵された所領の中に,針畑荘として能家【のうげ】・桑原・古屋・中牧【なかまき】・庄屋・生杉【おいすぎ】・小入谷【おにゆうだに】・小林の8か村があげられており,この8か村が針畑荘の荘域である(朽木文書)長寛2年の明法博士中原明兼の勘注に,大治2年の庁宣を引用して「可以治幡(針畑)村為朽木庄領事者,高嶋郡司字信濃公静意為国司後見之間,望知針幡庄,仍所構取也,不可為証文」とあり(平遺2281),大治2年以前に針畑の朽木荘帰属をめぐって相論があることがわかる永和3年,足利義満は朽木氏秀に対し,朽木荘内針畑を安堵している観応3年の「福田村田地目録」の中に今井・上白屋・下白屋・下中安・窪【くぼ】・能家下【のうげしも】の6名田があげられ,これは天文23年の「針畑田地注文」に,上白屋名(7段60歩)・今井名(2段10歩)・中名(6段220歩)・山本名(7段53歩)・小入【おにゆう】名(6段331歩)・上中寄名(3段45歩)・下中寄名(5段)・下白屋名(5段290歩)・くほう名(7段30歩)・滝権寺名(5段120歩)・下司名(9段小)・公文名(9段80歩)・能家上名(1町310歩)・同下名(1町1段50歩),以上10町19歩と記された名田の名称と一致するところから,福田村とは針畑の異称とも推定される永享3年の朽木能綱から時綱への所領譲状の中に針畑村があげられているが,不知行と注記しているように,この時点では朽木氏は針畑の知行を貫徹しえていない永正13年,山門西塔南尾領針畑荘を僧蓮宝が偽って北尾領と称して公銭を押領したことに対し,室町幕府は蓮宝を厳科に処した上,年貢・諸公事の納入を朽木弥五郎に命じ,これをうけて朽木稙広は針畑年行事房に連絡し,同14年にも幕府は針畑年貢未進の納入を再度朽木氏に命じているように,幕府は山門の申請を受けて,朽木荘に近接する延暦寺領荘園の支配を側面より援助することを朽木氏に要請している文明10年に針畑の下司・公文が朽木氏の被官となる起請文を提出したことが示すように,朽木氏は延暦寺領針畑の支配を全うせんとした(朽木文書)かくして,戦国末期には朽木氏の針畑に対する支配は維持されており,近世初期にその実績が家康に確認されたのである現行の高島郡朽木村小入谷【おにゆうだに】・生杉【おいすぎ】・能家【のうげ】・中牧【なかまき】・古屋・桑原の地




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7372141