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本堅田(近世)


 江戸期~明治22年の村名。滋賀郡堅田四方のうち。はじめは幕府領で,大津代官所支配地,元禄11年~文政9年まで堅田藩領となり,のち佐野藩領となる。ほかに祥瑞寺領10~20石があった。村高は「寛永高帳」1,834石余,「元禄郷帳」1,742石余で,以後幕末まで変わらない(天保郷帳・旧高旧領)。今堅田とともに中世以来湖上の特権を有し,漁業・湖上運送に従事した。元禄年間以後この特権をめぐり他の浦との紛争が絶えなかった。元禄11年吉川浦(現中主【ちゆうず】町)の魞場,同12年木浜村(現在の守山市),安永9年沖ノ島(現在の近江八幡市)の漁場などが主なもので,西之切【にしのきり】では「出入公事方」という紛争解決のための専門の職を設けていた(西之切神田神社文書)。湖上運送についても安永8年八幡浦,寛政4年には大津百艘船,文化5年和邇南浜【わにみなみはま】(現志賀町),天保5年再び八幡浦とそれぞれ争っている(居初文書)。明治6年,祥瑞寺境内に順義学校ができた。この学校は文政3年堅田藩の家臣中村慶三郎によって堅田陣屋内で開かれた私塾を引き継いだもので,現在の堅田小学校の前身である。鎮守は都久生須麻神社・伊豆神社・神田神社の3社があり,寺院は臨済宗の祥瑞寺・満月寺と真宗本願寺派の本福寺のほか4寺ある。神田神社は式内社と伝えられ,伊豆神社は堅田漁師の守護神として崇敬され,漁業関係の多くの文書を伝えている。また祥瑞寺は殿原【とのばら】衆と呼ばれた堅田郷士の菩提寺。本福寺は全人【まろうど】衆と呼ばれた真宗門徒である農漁民の寺で,はじめ馬場の道場と称した。この住職であった千那【せんな】は松尾芭蕉と親交があり,この寺にしばしば芭蕉が逗留している。満月寺には近江八景の1つ「堅田落雁」で知られた浮見堂がある。明治5年滋賀県に所属。同13年の戸数499・人口2,467で農家371・商家113のほか大工・左官など10戸があり,農家の中には漁業を専業とするものも含まれている。田134町余・畑11町余,舟242艘あり,漁獲はフナ233貫余・ウナギ845貫のほかコイなどがあり,大津へ出荷している(物産誌)。同22年滋賀郡堅田村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7372550