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京町(近世~近代)


江戸期~現在の町名1~10丁目があり,7・8丁目は南・北に分かれる明治14~22年には伏見を冠称伏見町のうち1~4丁目は南組本町17町,5~10丁目は北組本町12町に属す京町通沿いに南から1~10丁目が連なり,4・5丁目の間に京町大黒町が介在する豊公伏見城ノ図では,京町通の西側は町家地,東側は2~4丁目が町家地となっているほかは通り沿いおよび町家裏は武家屋敷地1丁目に山口駿河守,2丁目に生駒讃岐守,3丁目に山岡道阿弥,4丁目に松平下総守,5丁目に鳥井主膳・岡部内膳,6丁目に亀井武蔵守,9丁目に水野対馬守・西尾藤兵衛,10丁目に奥田良右衛門・本田丹下の屋敷が並ぶこれらの屋敷地は伏見城廃城とともに姿を消し,寛文10年の山城国伏見街衢並近郊図では空地・馬場(4丁目)などとなっているまた,同図では京町通1~6・9~10丁目と見える1丁目は弾正町の北に位置し,江戸期1丁目と北の2丁目の間の東に伏見奉行所の西御門があった(新市域各町誌)また,町内には造酒家塩屋宗兵衛(天明八年御尋正徳年中以後造酒株内訳書・寛政九年造酒屋株帳)が居住し,元治元年から慶応3年の間,読書や算術を教える私塾を武田善兵衛が開校,元治元年頃に最盛期を迎えた(日本教育史資料)1・2丁目の間から西の新町1丁目に通じる讃岐図子の名は,生駒讃岐守屋敷にちなんだものと伝え,2・3丁目の間を東の讃岐町へ抜ける道は高札場があったことから俗に札の辻といわれた(新市域各町誌)2丁目には町役人の筆工として近江屋治兵衛や河内屋源兵衛がおり(伏見鑑),嘉永3年から明治5年まで,田中武兵衛が開校した読書・算術の私塾があり,安政4年頃に全盛期を迎えた(日本教育史資料)3丁目は大手筋の南に位置し,医師広沢宣隆や広沢立三が居住(伏見鑑),羊羹の製造元駿河屋がある駿河屋は寛正3年伏見九郷のうち船津(船戸)村で創立,天正17年6月1日当地へ移転,もとは鶴屋と称したが天和年間に幕府用達となり駿河屋の屋号を与えられたという(伏見町誌)5丁目には聖恩寺がある(維新前伏見管轄図)9丁目は上板橋通の北に位置し,東本願寺末本浄寺,元禄11年創建,日潮開基の日蓮宗瑞光寺末琳聖庵がある(京羽二重織留・府地誌)琳聖庵は明治維新後廃寺となった(新市域各町誌)1~3丁目は明治元年1番組,同5年伏見第14区,同7年第4区,同12年伏水第6組に所属,同14年1月紀伊【きい】郡第10組,同年10月鍋島町外27か町連合,同17年両替町1丁目外27か町連合のうちとなる4~6丁目は明治元年2番組,同5年伏見第7区,同7年第3区,同12年伏水第3組,同14年1月紀伊郡第7組,同年10月京町北7丁目外29か町連合,同17年新町6丁目外29か町連合のうちとなる9~10丁目は明治元年3番組,同5年伏見第4区,同7年第2区,同12年伏水第2組に所属,同14年1月紀伊郡第6組,同年10月京町南8丁目外50か町連合,同17年米屋町外50か町連合のうちとなる明治22年伏見町京町1~6丁目・9~10丁目,昭和4年伏見市京町1~6丁目・9~10丁目,同6年伏見区京町1~6丁目・9~10丁目となり現在に至る明治42年2丁目に城陽酒類商同業組合設立,昭和元年の組合員数289大正7年3丁目に二業組合が置かれ,組合員数63を数えた(伏見町誌)昭和4年10丁目に堀ノ上を編入




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7375770