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入山田村(中世)


鎌倉期~戦国期に見える村名和泉国日根郡日根荘のうち文暦元年12月2日の日根荘諸村田畠在家等注文案に「入山田村」とあるのが初見(九条家文書/図書寮叢刊)日根荘四か村の1つ惣社は大木の滝宮社文永9年7月18日,九条家政所は日根荘雑掌慈蓮の子中原(日根野)盛経を当村預所職に補任した(日根文書/泉佐野市史)また,応長2年2月25日僧光憲は「日根野・入山田二箇郷下司以下諸職」などの請文を出し,年貢・公事を本所九条家に納入することを約束している(九条家文書/図書寮叢刊)正和5年6月17日の日根野村絵図はこの光憲が作成したものと推定され,当村は日根野村の東方に記されている(同前)下って南北朝期の建武4年正月,当村大木に紀伊の名手源蔵人教治が立てこもったが,日根野盛治がこれを追い払っている(日根文書/泉佐野市史)貞和3年11月晦日高師泰は,日根野盛治に「槌丸城」の警固を命じ,同4年正月9日には盛治の子時盛に同城警固を命じている(同前)この槌丸(土丸)城は,日根野村と当村の境にある雨山山頂に位置し,泉南の重要拠点であったなお,文明16年12月7日の宇高光成書状には「入山田庄」と荘名で見え,土丸付近で合戦があったことが記されている(同前)応永17年9月9日細川頼長は「入山田加造田三郎次郎知行分半分」(大木・菖蒲両地域)を細川頼有月忌料として,氏寺の京都建仁寺永源庵に寄進している(永源師檀紀年録/和泉市史1)当村は日根荘で最も奥地にあり,九条家の支配が比較的安定していた地域であるが,以降も永源庵との相論は続き,守護による侵食の危機にさらされていた永享元年12月27日に改めて日根野・入山田両村が九条家雑掌に沙汰付され,翌2年10月2日には入山田四か村田数并分米注進状が作成されている(九条家文書/図書寮叢刊)これによると当村は土丸・大木・菖蒲・舟淵の4小村(垣内的集落)からなり,番頭制によって九条家の直接支配が行われていた下って,文亀元年頃には,土丸村と菖蒲村の番頭は2人となり,計6人に増えている一方,九条家は借銭の返済に日根荘の年貢・段銭をあてるようになり,永享5年頃から嘉吉元年頃までは相国寺僧勲都聞による日根荘支配が続いているついで九条政基は応仁の乱の際,近江坂本に滞在しているが,その費用調達のため家司唐橋在治から180貫文の借銭をし,その見返りとして文明4年から当村領家職を在治・在数2代の間与えることになった明応5年正月在数は九条亭で殺害されたが,原因は政基の唐橋家への悲憤と当村の経営上の行き詰まりにあった文亀元年4月1日,九条政基は日根荘に入部し,当村の大木の長福寺を居所とした以後永正元年12月に当村を離れて上洛するまで,4年間の生活が「旅引付」に記されている文亀3年8月21日には佐藤惣兵衛尉に与する根来衆が当村土丸に陣どったため政基は犬鳴山に逃れているまた政基は滞在費を借銭しているが,文亀3年5月2日には当村舟淵分領家職半分を担保に4貫文を根来寺万福院から借用し,文亀4年3月14日には舟淵・菖蒲の両番頭から2貫300文を借用している同年7月19日,根来衆と和泉守護の和平が成立,以降政基と根来寺閼伽井坊明尊との間で日根野・入山田両村の代官職請負いの交渉が続けられ,11月5日契約が成立したしかし12月2日には紀伊守護畠山尚順の被官野尻某が,当村の半済を申し入れたことが代官明尊から伝えられている(旅引付)以後永正3・4年に明尊が提出した年貢算用状が残っているが,九条家領としては,永正15年12月13日の明尊書状を史料上の最後とし,当村の年貢を納めることを通知している(九条家文書/図書寮叢刊)なお永享9年4月11日の田地売券(中家文書/京大古文書室影写本)には「和泉国日根郡入山(田脱カ)庄内土丸村」とあり,同様の売券が中家文書中に多数存在する以下,文安6年2月22日には「入山田庄大木村」の田地が6貫文で道心・宮内次郎に売却され,天文20年正月吉日には「入山田庄槌丸村」の田地が,宮内次郎から根来成真院に売り渡されているまた天文12年12月21日松浦孫五郎書状によると「日根野・入山田御本地分」などが日根野孫七郎に安堵されている(日根文書/泉佐野市史)犬鳴川上流にあたり,現在の泉佐野市土丸・大木付近に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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