太田郡(中世~近世)

戦国期~寛文4年の摂津国の郡名旧称島下郡「全志」3は,典拠を明らかにしていないが,鎌倉期から西国街道沿いの島下郡太田村を本拠とした太田氏が自己の所領を太田郡と私称した遺名であり,江戸期寛永年間までその郡名が使用されたとしている多田源氏の流れをくむ太田氏については,文治元年11月太田太郎頼基が京都から西国に下ろうとした源義経・行家の行く手をはばむため合戦し(平家物語),戦国期細川両家の抗争のときにも摂津国の国人として活躍したことが知られるが(瓦林政頼記),同氏の所領内容を示す史料はいっさいない茨木城主中川清秀の天正10年天石門別神社禁制札に「摂州太田郡茨木」と見えるのをはじめ(茨木神社文書),いまに残る文禄3年9~10月付の吹田【すいた】村・味舌下【ましたしも】村・庄屋村・宿久庄【しゆくのしよう】村の太閤検地帳にも「太田郡」の郡名が使用されている江戸期に入っても,承応2年の仕渡申証文之事などに「摂州太田郡」と見える(今井家文書)摂津高改帳によれば元和2年頃の当郡の石高は5万395石うち1万8,611石余が幕府領,残余は旗本知行地・諸藩領に分散している正保年間の石高は5万2,426石余(摂州村々高書写)寛文4年旧称島下郡に復した

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7381843 |