溝杭村(近世)

江戸初期の村名。島下郡のうち。旗本長谷川氏知行。天正11年11月22日の羽柴秀吉安堵状(竜安寺文書/大日料11-5)に「摂州太田郡内溝杭村弐拾八石八斗四升」とあり,当知行にまかせて竜安寺に安堵している。村高は,摂津高改帳では元和2年頃太田郡のうちとして村名が見え2,556石余。天和3年の摂津国郡分村名高辻(中井家文書)には「溝杭村 小村五有」とある。また「摂陽群談」には「溝杭村 目垣・真出・馬場・二階堂・十一村・平田等の小邑あり」とあるが,元禄3年の摂州島下郡村々高帳(梶家文書)では「溝杭郷の内」として十一【じゆういち】・目垣・二階堂・馬場村をそれぞれ独立村としている。遅くとも元禄年間までには溝杭村は消滅し,「元禄郷帳」に見える目垣村・平田村・十一村・馬場村・二階堂村に分離したと考えられる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7386440 |