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芦屋荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。兎原郡のうち。葦屋荘とも書く。「金剛仏子叡尊感身学正記」弘安8年7月条に「廿五日。著葦屋五郎左衛門尉重仲之家。廿六日。於当荘。百三十九人授菩薩戒」とあり,西大寺の叡尊上人が播磨一乗寺に下向の際,当荘の葦屋重仲宅に止宿,荘民139人に菩薩戒を授けたという(西大寺叡尊伝記集成)。ついで元亨元年5月4日付沙弥法一田地寄進状によれば「摂津国葦屋庄地頭職名田内上田参町」が勝尾寺に寄進されているのが知られる(勝尾寺文書/箕面市史史料編)。法一は葦屋重仲と同じく当荘を本拠とする葦屋氏一族ともみられるが,鎌倉末期の元弘3年4月に赤松円心に属して六波羅の軍勢と戦った者に摂津国住人葦屋三郎兵衛尉がいる(後藤文書元弘3年5月日付後藤基景軍忠状)。室町期には文明5年2月の北野社領諸国所々目録に「摂津国芦屋荘」とあり,京都北野社領荘園として所見する(北野社家日記)。同荘は「北野社引付」長享3年6月5日条によれば年貢高合計38石7斗余で,この内11石余を北野社に納入している(新修芦屋市史)。また,「忠富王記」明応5年正月17日条には「一吉書使上洛……芦屋分米二斗・銭二百文」とあって,当荘から白川神祇伯家に正月の祝物を届けていることに徴すれば,白川家の家領ともなっていたらしい(宮内庁書陵部所蔵白川家本/西宮市史4)。戦国期になると,国人瓦林対馬守政頼が荘内に鷹尾城(現芦屋市城山)を築いた。当時,畿内では細川澄元派と細川高国派が抗争しており,政頼は摂津有数の高国党であったため,永正8年7月に澄元党の細川尚春に攻められ,同月26日芦屋河原で両者の合戦となった。政頼は一旦勝利したものの,翌月には城を明け渡している(細川両家記/群書20)。同年のものと推定される12月14日付細川澄元書状には「同(7月)廿三日,摂州芦屋城江詰寄,責落外城」と見える(末吉文書/西宮市史4)。天文24年には当荘と西宮郷・本荘の間で山論があり,荘内の芦屋村・打出村の百姓が逃散したという。ついで永禄3年11月21日付三好長康裁許状にも「今度芦屋庄拝領之山,従西宮押領仕付而,芦屋庄者共逐電仕候」と見え,三好長康の裁許で当荘側の勝訴となったが,山論は近世以降も繰り返された(吉田善八所蔵文書/新修芦屋市史)。天正6年の荒木村重の反乱後,当地は大坂石山城の池田信輝父子の支配下に入り,やがて羽柴秀吉の蔵入地となった。大坂築城に際しては当地の石材も使用されることとなり,天正11年8月には「摂州本庄 芦屋郷 山路庄」の百姓に工事中迷惑をかけぬよう禁制が下されている(吉井良尚氏所蔵文書)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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