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葺屋荘(中世)


鎌倉期~室町期に見える荘園名摂津国兎原郡のうち建久2年10月日付長講堂所領注文に「葺屋庄」とあり,後白河院の六条殿長講堂所領として年貢・雑事を勤仕した後白河院の死後は同院の女宣陽門院覲子内親王に譲られ,皇室領として伝領された(島田文書/鎌遺556)嘉元2年7月8日付後深草上皇処分状案によれば堺荘などとともに永福門院藤原子の管領とされたが(伏見宮蔵文書/同前21888),永福門院没後は再び持明院統の光厳上皇に帰したとみえ,貞和5年9月15日付光厳上皇御領処分状では「摂津国葺屋荘」と見えて皇子後光厳天皇に処分された(中村直勝博士蒐集古文書)一方,正平3年5月9日付後村上天皇綸旨によれば「摂津国葺屋庄下司跡」は南朝から河内の駒谷安養寺に寄進され,次いで同17年9月には楠木正儀が下地を金剛輪寺に付すべきことを命じている(金剛輪寺文書/大日料6-11・24)室町期になると,後伏見天皇女御広義門院の開創で,崇光院の陵墓のある伏見大光明寺が当荘の領家となり,応永14年3月日付宣陽門院御領目録には「摂津国葺屋庄 大光明寺 年貢米百石」と記されている(八代恒治氏所蔵文書/大日料7-8)永享年間には当荘に守護の一国平均反銭が賦課されたため,本家の伏見宮貞成親王が大光明寺の訴えによってその免除を幕府に申請したことがあった(看聞御記永享6年7月11日条など)その後,長禄2年8月10日付足利義政御判御教書には「伏見大光明寺領摂津国葺屋庄内下司・公文両職事,雖為清式部四郎元俊知行分……所預置当寺也」と見え,荘官職は幕府奉行人清元俊に宛行われていたが,この時,大光明寺に寄進されて,同寺が当荘を一円知行することとなった(前田育徳会所蔵武家手鑑)しかし,応仁の乱後は武家方に押領されたらしく,文明14年頃の摂津国寺社本所領并奉公方知行等注文によれば「一,伏見大光明寺領葺屋庄〈不知行〉」とあって,知行の実は上がらなかった(蜷川家文書2/大日古)遺称地はないが,「五畿内志」では生田・熊内・中尾・中村・筒井・脇浜・小野新田の諸村を当荘に当てている六甲山南麓の扇状地,生田川左岸東方の脇浜に及ぶ一帯に比定される一説には葦屋の誤記からできた地名といわれ,現在の芦屋市内に比定される葦屋荘と混同された可能性がある(新修芦屋市史)




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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