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静川荘(古代~中世)


平安期~戦国期に見える荘園名那賀郡のうち高野山領当荘の東を流れる静川(現穴伏川)が荘名になったと考えられる地名としての初見は,嘉保元年11月11日の僧正某山地売渡状案で「静河奥山地」とあり,高野山政所所司がその山地を高野山領内と主張している旨が記されている(高野山御影堂文書/県史古代1)また嘉承2年正月25日の官宣旨案には那賀郡名手村を高野山大塔の仏聖灯油料所とすることが見え,名手村(荘)の四至に「限東静河西岸」とあるところから,名手荘は静川の西岸に位置していたことがわかる(高野山文書/大日古1-4)荘園名としては治承2年閏6月28日の造日前国懸宮役請文案が初見で,紀伊国一の宮の日前・国懸両宮の造営に際して「静川庄」は「国懸宮宝蔵一宇〈檜皮葺〉」の建立経費を負担している(壬生家古文書/平遺3844)元暦元年に作成された神護寺所蔵の挊田庄図には「静川庄」の名が名手荘とともに静川(現穴伏川)の右岸(西岸)に記されており,静川をへだてて当荘は桛田【かせだ】荘と接していた(日本荘園絵図集成)平安期の当荘の荘園領主は明らかではないが,貞応3年に起こった当荘と神護寺領桛田荘の境相論では高野山が領家として相論にかかわっており,以後「高野山文書」中に当荘の名が見えることから,中世を通じて高野山領であったと考えられる貞応3年のものと推定される5月26日の高野山僧の覚観書状によれば,静川荘と桛田荘の境相論は貞応2年8月から起こり,高野山側の非法を神護寺別当宗全が朝廷に訴え,いったん勅許が下されようとしたが,桛田荘にも勢力を有していた湯浅宗光が幕府に訴訟を起こし関東に下向しようとした高野山の使をからめ取ったことが記されている(神護寺文書/那賀町史)これに対して神護寺僧の行慈は,同年のものと推定される6月16日の行慈書状で,湯浅宗光に下された関東御教書を根拠に,六波羅での審理を強く要求した(同前)この相論が以後どのように進展したかは明らかではないが,上述の絵図には静川から「大豆畑中山」とみえる丘陵を越して桛田荘に引水する用水路(文覚井)が開削され,桛田荘方が静川の水を独占して開発を進めようとした過程で両荘の紛争が生じてきたと推定される神護寺所蔵の絵図と酷似した宝来山神社(かつらぎ町)所蔵の桛田庄絵図には神護寺所蔵の絵図に見られる静川右岸の牓示に代わって「桛田領」という文字が記されており(日本荘園絵図集成),同絵図は室町末期~戦国初期に神護寺所蔵絵図をもとにして作成されたものと考えられるまた文正元年の紀伊国守護畠山政長遵行状写には「静川庄与神護寺領桛田庄境相論事」と見え(神願寺文書/かつらぎ町史),静川の用水をめぐる静川荘と桛田荘の相論が中世を通じて継続していたことが知られるなお鎌倉期の宝治元年7月の造外宮主典頼高申状案には「静川庄卅町 分米六石九斗〈済一石五斗六升〉」とあり,当荘の公称田数は30町であったことがわかる(高野山文書/大日古1-3)その後応永7年正月18日の高野山金剛峯寺々領注文には当知行分として「静河庄」とあり(勧学院文書/高野山文書1),同25年4月8日の高野山領神馬貢進注文には高野山への神馬貢進に際して,公文と惣追捕使が当荘に課せられた裸馬半分にあたる500文を負担しており(高野山文書/大日古1-4),高野山の支配が続いていたことがわかる当荘は静川(現穴伏川)と江川(現重谷川)の間に位置し,現在の那賀町名手上・平野・名手下付近に比定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7404771