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上後藤村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。伯耆【ほうき】国会見【あいみ】郡のうち。鳥取藩領。当地は,往古砂漠不毛の地であったが,享保5年米子の内町後藤氏(4代)により開墾が企てられ,水を引き,防風林を植え,開作者を招致し,46年の歳月を費して,5代市右衛門(清七)の明和2年にやっと完成し,同年には20戸余が60町歩余を開墾したという(米子自治史)。もとは三柳村に属したが,明和2年分村した(県史9)。「天保郷帳」には新田高として43石余,「元治郷村帳」53石余,「旧高旧領」53石余。元禄の本免は3.4,「元治郷村帳」の物成は13石余。戸口は,「伯耆志」23戸・140人,「文久3年組合帳」20戸。居住者の初めは,享保7年に能義郡島田村から移住した長右衛門といわれ,次いで元文元年に門生村の市三郎夫婦が移住したといわれ,後藤氏は彼らに家屋や農具資金を貸与したため開墾が進み,沃土と化したという。明治初年の頃までは,綿花と藍の産地であったが,その後桑園化し,養蚕を業とする者も多くなった。蔬菜・甘藷・麦作も盛んで,近郊園芸農業地域となった。産土神は米子の糺山にある鴨御祖神社であるが,村内の社として,創立年代は不詳だが荒神宮があり,明治元年古開神社と改称し,勝田神社の摂社に定められた。当地出身の人物として和算家の松永藤一郎がおり,文化5年に当地で生まれ,算盤を父に学び,後いわゆる「藤平衛算」と呼ばれる乗除の捷径法を研究,明治16年頃から没年の同24年まで全国を巡歴し,その門弟4万人余といわれた。明治4年鳥取県,同9年島根県,同14年再び鳥取県に所属。同22年住吉村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7407945