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智土師郷(中世)


鎌倉期から見える郷名因幡【いなば】国智頭【ちず】郡のうち千土師郷とも書く嘉暦4年6月25日藤原真延其他起請文(金沢文庫古文書7)に「因幡国千土師郷東方上村内うつかの谷の百姓等」と見えるのが初見郷内は東方と西方とに分かれ,東方上村はもと千葉氏の一族東六郎盛義の所領であったが,元亨元年6月22日将軍〈守邦親王〉家寄進状案(同前)によってそのうちの3分の1が,さらに元徳2年6月2日関東下知状(同前)によって東方上村一円が称名寺の所領となったしかし,所領譲渡を渋る東氏の抵抗にあい,また鎌倉幕府の滅亡とそれに続く南北朝の内乱により,称名寺の郷内上村支配は困難をきわめ,建武3年12月1日の足利直義の称名寺々領安堵(同前)とその具体化のための種々の努力にもかかわらず,南北朝期には称名寺の支配は事実上退転してしまったようである戦国期,郷内東方木原には地侍木原氏が櫃ケ城を築いてここに拠ったといわれ,文明12年2月15日木原善棟譲状(旧木原村百姓長四郎文書/県史2)には「千土師郷東分」として「福武名」「公文名木原名」などの存在したことが知られる一方,明徳3年10月16日将軍家御教書(武家手鑑/同解題)には「因幡国智頭郡千土師郷西方上村・中村事,任御寄進状,可被沙汰付光恩寺」とあって,将軍義満の祈願所とされた光恩寺に郷内西方のうちの上村・中村が寄進されている智土師郷の東方と西方がいつどのような事情によって成立したのか,またその境界がどこであったのかなどはともに明らかでないが,「智土師」とは智頭郡土師の意で,八上【やかみ】郡土師と区別するためにこうした地名が用いられたものと推定されるその領域は千代【せんだい】川の上流,土師川と新見川の流域一帯ではなかったかと考えられる東方上村に対する下村,西方上村・中村に対する下村はともに史料によってこれを確かめることができない




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7408955