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北荘(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える荘園名。安芸国安北郡のうち。正応2年正月23日の安芸国在庁官人田所氏のものとされる沙弥某譲状で,原郷田畠6町3反60歩のうちに「一所畠二反 資俊(資俊,墨消し)北庄堺〈藤太作〉」と見え,北荘と原郷が隣接していたことがわかる(田所文書)。同譲状の別の箇所に「北庄 福田入道……同子二郎男」などとあり,福田を在地名とすれば,荘域は安北郡の東端にまで及んでいた可能性がある。「芸藩通志」明光寺の項に,同寺蔵の法華経八巻について「文治三年丁未十二月四日未時許,於閻浮提大日本国安芸国北庄深河書写畢,願主慶明,執筆僧定慶」と見え,深川が北荘内であったとも考えられる。しかし建暦2年8月19日の佐伯考支・大子連署譲状案では,深川は田門荘内にあり(毛利家文書),前出の沙弥某譲状でも,田門荘内に在地名矢口を冠する者が見られる。高陽町域における鎌倉期の両荘の地域比定についてはなお検討を要する。大永7年4月24日大内義興は,「佐東郡北庄参百貫地」を白井膳胤へ宛行った(白井文書)。天文21年2月2日の毛利元就・隆元連署知行注文には,「北庄之内〈廿五貫〉乃美知行」とあり,さらに北荘と並んで,安北郡では,岩上・諸木・末光・久村・馬木・深川下分・鈴張・可部の地名が見え,佐東郡では,安上下・中洲・山本・原・うしろ山・つつせ・長つか・大塚・阿土村・小河内が記される(毛利家文書)。このことから北荘は,おおむね江戸期の岩上村・玖村・中須村・上安村・下安村・長束村・東山本村・西山本村・東原村・西原村で囲まれる地域と推定できる。同23年8月8日毛利氏奉行人が大呑許済へ宛てた佐東郡北荘内打渡坪付には,屋山・小そうけ・はすか池・あつかはら・黒瀬などの小地名が見える。同年8月16日に元就は北荘内の地を伊藤就祐・河野通知・打明源六(譜録)・福井元宣(閥閲録93)・山県采女丞(同前161)などに宛行っている。このように毛利氏支配が強まってくる同年9月晦日,大内氏奉行人は白井越中守に対して,大永7年大内義興の宛行った「安北郡北庄三百貫之地」についての御判申請を認め,披露を遂げた旨の書状を送っている(白井文書)。天文23年11月2日,元就は山田満重に(閥閲録山田吉兵衛の項),同24年3月10日大多和就重に(同前123),永禄7年12月11日入江就昌に(同前54)それぞれ北荘内の地を遣わしている。山県源右衛門覚書によると,天正17年2月22日,毛利輝元は広島築城の適地見分のために,吉田から広島へ出向いた際,安北郡北荘村福島大和守(元長)の所へ宿泊している。同18年12月1日佐東郡北荘内打渡坪付には,行信・なへ山・けいせいた・角田・よこ柳きなどの小地名が見え(山田家文書),同年12月2日の佐東郡温井北荘打渡坪付は,温井・中庄司・北荘を範囲とするもので,あきをか・窪田・柳か谷などの小地名が記されている(譜録)。室町・戦国期の荘域は,おおむね高陽町矢口・小田と安古市町東野・中筋に比定できるが,慶長12年に太田川の流路変更があり,新川が荘域の中央を流れ,分断することになった。その後,名称は東野・中筋の側に継承されている。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7421623