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広島(中世)


 戦国期に見える地名。安芸国佐伯郡のうち。当初は太田川河口のデルタが島のようになっていた所と思われるが,政治的・軍事的・経済的な重要地点であることから,天正17年から毛利輝元は当地に築城を開始した。「山県源右衛門覚書」には「輝元公之御代,天正十七年二月廿二日,輝元公従吉田広島へ御出被成,安北郡北庄村福島大和守所へ御宿被成,明星院山・比治山・己斐松山,此ケ三所へ御上被成,御城地御見立,同年四月十五日ニ二宮太郎右衛門奉行ニて御鍬初め,京都聚楽之写にて縄張被仕由候事」とあり,太田川河口の地に築城するため,北庄の福島元長の家を宿所として明星院山・比治山・己斐【こい】松山に登って城地を見立て,二宮就辰を普請奉行として4月15日から鍬初めが始まったことが知られる。同年正月19日の二宮就辰宛毛利輝元書状(譜録)に「島普請せひとも可仕立存候,世上之おもハく嘲にて候条,かい分可申付候」とあり,島普請と称されるデルタに堤防をつくり基礎を固めるといった難工事に対する世間の反応と輝元の決意がうかがわれる。同年7月17日には,輝元から湯浅治部大輔に「広島之城普請」が命じられているが,そこに「元清普請奉行申付候条」とあり,穂田元清も普請奉行に任じられている(閥閲録140)。また同日に井原元尚へ堀普請が命じられている(譜録)。同年12月23日の毛利秀元宛毛利輝元書状(長府毛利文書)によれば,上洛中の輝元が秀元に対して広島在番と普請への協力を依頼している。天正18年12月25日の佐世元嘉書状(厳島野坂文書)に「来正月八日広島被成御下向候条,以其上重々可被仰出候」とあり,広島城への輝元の入城は同19年1月8日となった。翌文禄元年には秀吉の朝鮮出兵が開始され,同年2月に輝元は広島を発し(毛利家文書),同年3月19日には広島在番として渡瀬左衛門佐が秀吉より遣わされている(同前)。九州へ向かった秀吉は,同年4月11日に広島に着いた(豊臣秀吉九州下向記)。同月14日の安国寺恵瓊外二名連署起請文(毛利家文書)に「一昨日十一至広島被成御着座候,各気遣仕候之処,東之橋御入口より,御気色よく候て,侍町其外被及御覧,地取似合たると被仰出候……城取町ハり,輝元似相候様ニ被仕候段,御安堵之由」とあり,秀吉が輝元にふさわしい城として広島城のできばえを称賛している。また侍町などの城下町がつくられていることが知られる。「山県源右衛門覚書」に「同(天正)十八年正月より惣構土手御普請,同月二宮太郎右衛門奉行ニて町割出来仕候」とあり,天正18年正月には城下の町割が完成していたものであろう。「知新集」所収の絵図によると,城の本丸を囲んで吉川・小早川らの一族および粟屋・穂井田らの奉行人の屋敷があり,その外側に熊谷・益田らの有力国衆の屋敷が並んでいる。年未詳8月20日の毛利氏奉行人連署広島城法度条々(巻子本厳島文書)には,城中出頭の際の乗物などに関する規定をはじめ,寄合酒の事,喧嘩の事,下馬所の事,家臣の家屋敷普請場の掃除の事などが定められている。慶長5年の関ケ原の戦による毛利氏の萩移封により,福島正則が広島に入城。福島氏は武家屋敷を縮小して町人居住区を広げ,山陽道が城下を走るように付け替えるなどの商業振興策を行った。しかし元和5年に城の改修が「武家諸法度」に触れたことを名目として改易された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7423470