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屋代島②(中世)


南北朝期から見える地名周防【すおう】国大島郡のうち大島とも称す大島の呼称は平安末期に見える「吾妻鏡」文治4年12月12日条に当島の東部にあった島末荘について「右件庄者,彼国大島之最中也,大島者,平氏謀反之時新中納言構城居住,及旬月之間,島人皆以同意」とあり,源平合戦のとき,平知盛が当島に城郭を構え,島民がそれに加担したという平家方に組した島民については,建久3年6月2日付の前右大将家政所下文案(正閏史料外編所収文書/鎌遺594)によれば,屋代源三・小田三郎とあり,屋代荘内の土豪らが登場する同史料によると,当島には「大島三箇庄」があり,中原(大江)広元が地頭職に補任されている「大島三箇庄」とは屋代荘・島末荘・安下荘をさすと考えられる南北朝期以降,大島の呼称はみられなくなり,屋代島がそれにかわった「大島三箇庄」のうちの屋代荘が島名を代表するに至ったのであろう延元4年7月7日に加室で合戦があり,そのころ当島に南朝方が進出している「忽那一族軍忠次第」(続々群3)に「周防国屋代島大将中院殿」と見えるなお正平4年12月に屋代島合戦があり,当島内の家室,皆瀬所々で忽那氏が軍功をたて,同月14日中院内大臣から御教書を与えられたという(忽那島開発記/続々群3)また南北朝末期,貞治2年7月,細川氏により伊予を追放された河野氏は九州の征西府を頼って渡海するが,そのとき村上義弘・今岡通任らが屋代島に帰宅し,また同6年九州から帰国の途中,当島に立ち寄っている(予章記/群書21)これは史料的に検討を要するが,ともかく当島が瀬戸内海を航行するとき,中継点として重要性をもっていたことは確かである康応元年3月に足利義満は厳島社参詣を果たすが,往路当島を遠望し,同月19日帰路,竈戸関から当島沖を通過したそのとき義満に同行した今川了俊の紀行に「かまどの関より周防国やしろの島・よこみ・いつゐ・あき・ふなこしなどいふ浦々島々とをらせ給」とある(鹿苑院殿厳島詣記/県史料中世上)やがて応仁の乱が勃発すると,大内政弘は山名宗全を援けて西軍方となり,応仁元年5月10日,山口を出立して同13日,当島に途中立ち寄っている「経覚私要鈔」(大日料8‐1)に「社ノ島陸(久賀)マテ御付候」と見える室町期,当島には大内氏の勢力が及んできた応永8年と推定する5月1日付の大内弘茂書状(閥閲録71)によれば,大内弘茂は屋代島に軍勢を派遣したと被官の小野資信に伝えており,当島に弘茂と対立する大内盛見に加担する勢力が存在したまた当島の安下荘公文名は山口の法泉寺領であったが,大内氏が借用したままで返済しないので,それを返還するようにという幕府の命令が嘉吉3年3月に下っている(看聞御記)さらに永享4年4月2日,大内持世は長崎隼人佐に屋代島島末荘内の本知行分の半分を宛行っている(長崎氏所蔵文書/地名淵鑑)世宗11年(永享元年)12月,朝鮮通信使朴瑞生は,対馬から兵庫に至る海賊について記すが,そのなかに「志賀・竈戸・社島等賊」と述べ,当島の海賊衆が大内氏配下であったとも書き記している(李朝実録/県史料中世上)厳島合戦には,当島の海賊衆は主として陶方に属して没落し,そのあとに来島氏(通康)が当島に知行を毛利氏から与えられたが,天正10年,同氏が毛利氏に背くと,それは同族の能島村上氏に与えられた天正10年と推定される12月18日の毛利輝元書状によれば,「屋代島之内来島分」などが村上武吉に与えられているそれは同13年11月1日の小早川隆景起請文にも見える(閥閲録22-1)




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7426717