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大西郷(中世)


南北朝期に見える郷名三好郡田井荘のうち川崎三所神社蔵の大般若経第480巻奥書に「于時応永九年社五月於阿州田井庄大西郷山城太井村金光寺住持之僧……本願 金剛仏子良祐 結縁三郎四郎 応永十年〈□(癸)未〉五月十五日書写畢」と見える(三好郡誌)当郷は山城町から池田町の西部の地域に比定され,伊予・讃岐と国境を接する交通・軍事上の要地であった長享元年10月28日の細川成之書下には「黒沢殿御領阿州上郡湯河代官職事,面々中へ,被預置訖,大西口事弥相支」と見えるが(喜多文書/徴古雑抄3),これは三好郡の土豪が三好之長を推して守護細川氏に反乱を試みた際の文書で,細川成之は祖山奉公衆に湯川(井河)の代官職を預け置いているこの反乱の中心となったのは,三好氏と深い関係にあった当地域の土豪大西氏と考えられる大西氏は田井荘の荘官とされるが,「南海通記」には「予州ノ土居・今田・二宮・多田・金田・阿波ノ大西,讃岐ノ羽床ハ分際小身ナリトイエドモ王命ヲ受ケ変セス」とあり(県史2),南北朝期には小笠原氏とともに最後まで南朝方として戦い続けたという大西氏の居館は池田町白地にあり,その近くの報恩寺の廃寺跡から出土した瓦の銘文には「文明癸(庚カ)巳歳十一月吉日,報恩寺上葺,大檀那 藤原之(元カ)高」と見え(池田町史),藤原之高は大西之高もしくは元高のことで,大西氏は三好氏と関係を持ちつつ国人領主として発展を見せ,頼武・覚用の代には,白地城を中心に山城谷の田尾城・大利城・漆川城などに一族を配し,三好地方最大の領主となった(同前)「三好家成立之事」には「白地ノ城ニハ大西出雲守」と見える(群書21)しかし天正5年,四国統一を進める長宗我部氏によって白地城は落とされ,その重臣谷忠兵衛,さらには中内長助が城代となった(阿波志・南海通記・三好家成立之事・四国軍記)天正13年の豊臣秀吉の四国攻めに際し,長宗我部元親は自ら8,000余騎をもって大西の白地城に本営を置き,阿波・讃岐・伊予の連絡を密にせんとした(県史2)同年のものと推定される5月19日付の木屋平殿宛の長宗我部元親書状には「上勢急度渡海之聞有之に付而,両国為下知,一昨日大西相着,昨日岩倉相越候」と見え,元親の大西着を伝えている(松家文書/徴古雑抄2)これに対して,秀吉は阿波・讃岐・伊予の三方面から軍勢を侵入させたこの時,長宗我部氏は秀吉軍に抗し切れず,7月27日には和議を結び,元親は土佐に退いたなお江戸期には,寛文4年の高辻帳に「池田村枝村大西町」と見える「三好郡村誌」では明治7年に大西町を池田町に改称したとするが,明暦4年の棟附帳には池田町と見え,古くから池田町とも称していたものと思われる阿波九城の1つ池田大西城には城番や池田士が配置され,また郡代屋敷(陣屋)も建てられ,同城のある上野台地南下は東西に町場として発展した明暦4年の棟附帳では,中世大西氏の時代から続く職人も見える




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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