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以南村(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える村名。幡多郡幡多荘のうち。地名としては平安期から見え,嘉応年間と推定される土佐国金剛福寺僧弘解に「伊南弐町」とあり,当地内に蹉跎御崎金剛福寺の給田があったことが知られる(蠧簡集/平遺3513)。当時の範囲については不明であるが,以布里がこの内にあり,浦国名・恒時名の名【みよう】があったことが確認される。鎌倉期には幡多郡に幡多荘が成立し,建長2年11月日の九条道家惣処分状に「土佐国幡多郡 本庄 大方庄 山田庄 以南村 加納久礼別符」と見え,一条実経に譲られるが(九条家文書/図書寮叢刊・鎌遺14336),これらの総称が幡多荘で,以南村は幡多荘内の一部をなした。平安期以来の蹉跎山金剛福寺の以南村の供田も幡多荘の領主一条氏の下で安堵され,弘安4年5月日の前摂政家政所下文に「以南村内伊布利名壱丁」などと見える(蠧簡集)。また正応2年5月日の同家政所下文には「伊布利名壱町」のほかに「以南村三崎村伍段」とあり,三崎村も以南村のうちとされているが(同前),当時の以南の範囲は必ずしも明確ではない。また正安2年11月日の左大将一条内実家政所下文には「以南村陸斛」と見え,金剛福寺供養の奉加の官米70石を先例に任せて沙汰するよう「幡多庄官百姓等」に命じている(蠧簡集)。南北朝期・室町期には当地名はほとんど見えないが,文明12年3月12日の勧進帳に「土州幡多郡以南村の蓮光寺」とあり(拾遺),さらに天文3年8月の某沙門勧進状には「土州幡多庄以南村志水於蓮光寺」とあり(同前),清水も室町期・戦国期には以南村のうちとして見える。天正17・18年に行われた長宗我部氏の検地では,以南を冠する村々として現在の大月町の春遠村と土佐清水市に属する川口村・貝川村・有永村・片賀須村・宗呂村・太津村・ヨカリ山村が地検帳に見えている。慶長2年の以南上地仕直地検帳では,下茅村・鑰垣村・熊桃村・大岐村・以布利村・猿野村・斧積村・小津賀村・中村・有永村・宗呂村・川口村・三崎村・賀久見村・清水村・中浜村・大浜村が以南とされている。また,天正17・18年の地検帳の表紙の張紙に「以南之内」とある村々は,以南を冠した8村のほか,佐井津野・姫野井・小間目・タテ・赤泊・周防方・平山・樫ノ浦・カシラツトイ・西泊・狐塚・三崎・爪白・口猿野・斧積・浦尻・清水・越・大浜・中ノ浜・賀久見・伊布利・窪津・津呂・足摺・伊佐・松尾・鑰垣谷・大岐・下萱・布・立石・菜唍【なしし】の諸村で,現在の土佐清水市全域と中村市の一部および大月町南部太平洋岸を含む広汎な地域であるが,張紙はのちのものと考えられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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