胡屋(近代)
明治41年~現在の字名。はじめ越来村,昭和31年6月コザ村,同年7月コザ市,同49年からは沖縄市の字。越来村役場が置かれた。明治末年頃に中央部を南北に通過する中頭郡道が開通し,のち嘉手納【かでな】(嘉手納町)~泡瀬間を結ぶ東西線が小字胡屋原の北端(胡屋十字路)で交差し,中頭地方の東西南北を結ぶ要路となった。昭和20年全域が米軍用地に接収され,集落地一帯に米軍の野戦病院が設置されたが,のちに民間に移管され沖縄中央病院と改称された。同25年小字八重島原一帯が返還され,沖縄中央病院はその一画に移設されて戦後医療に大きな役割を果たした。米軍の軍用道路の拡張工事に伴い,旧県道は当時の面影を失ったが,現在胡屋~園田間に市道胡屋21号として一部が残っている。戦前,胡屋十字路の南側の旧県道沿いにあった旧越来村役場の跡地に,同33年コザ市役所庁舎が建設されたが,同43年に売却され,同44年仲宗根に新庁舎が建設された。開校当初は小字前田原(現諸見小学校敷地)に設置されていたコザ中学校が,昭和26年集落地の東端近くの旧米軍野戦病院跡地に移設された。同28年南側のトインジ森(現中央公園)の近くに灌漑用ダムが建設されたが,同43年ダム周辺の起伏の多い小さな谷間のある一帯が沖縄こどもの国建設用地に決定され,工事が進められた。一部が,同54年胡屋1~4丁目,同57年中央1~4丁目,同59年園田1~2丁目となる。世帯・人口は,昭和45年2,753・1万1,010,同52年3,446・1万2,724。現在,行政区胡屋の一部を構成。
| KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464377 |