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日高荘(中世)


平安末期~室町期に見える荘園名安芸国安南郡のうち上蒲刈島・下蒲刈島を領域とする荘園興福寺領嘉応2年4月の寺使宗季の非法を訴えた伝灯法師雲暁解に「宗季寄事於左右,背上仰,押取安芸国日高御庄雲暁私領田畠,三ケ年間一塵不賜其作物,又不返与所従資財等」と見える(興福寺本信円筆因明四相違裏文書)荘園としての成立はさらに遡ると思われ,「長秋記」保延元年8月19日条に,平忠盛が召捕らえ「天下人皆見物」するなか,四条河原で検非違使にひきわたした海賊70人の「賊首」として「日高禅師」の名が見えるが,日高荘を拠点に近隣の海上勢力を組織していた興福寺の僧であろう「興福寺三綱補任」によると,鎌倉後期の正応~永仁年間に都維那長乗が日高荘の荘務を支配していたことが知られる(続群4下)南北朝期に入ると,正平6年9月28日常陸親王令旨によって,「日高下島〈多賀谷孫次郎跡〉」が高田郡内部荘を本拠とする三戸孫三郎頼顕に兵粮料所として預置かれている(毛利家文書)この文書から,おそくとも南北朝初期には多賀谷氏が蒲刈島に進出していたことがわかる享徳元年,平賀弘宗・小早川盛景らが,重見将監(伊予河野氏の庶家)を助けるため日高城麓に発向し,敵数輩を討ち取っている(小早川家文書)室町期に入っても,日高荘は興福寺領であり,長禄2年8月15日の諸国荘々に当年上分米弁済を命じた興福寺公文所下文に「安芸国日高庄一斛」が見えるが,合点がないところから未納であったらしい(大乗院寺社雑事記)請所は多賀谷氏と思われる日高荘は,大内氏分国に編入されており,山口からの行程日数を寛正2年6月29日の大内氏奉行人奉書は「日高島七日〈請文十九日〉」と記すなお,上蒲刈島の大浦に日高荘神社がある現在の蒲刈町・下蒲刈町に比定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7617675