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山中郷(中世)


鎌倉期~戦国期に見える郷名備後国世羅郡大田荘大田方のうち「芸藩通志」は黒淵・山中福田・長田・徳市・安田・戸張の6か村を指すとする中世には戸張・安田・吉田・溝熊が山中四郷と呼ばれ,ほかに黒淵村・横坂村も当郷に含まれた平安末期の仁安4年に大田荘に加えられた円宗寺領戸張保の地域に相当するらしい現在の世羅町北西部・世羅西町東部に比定される貞応2年大田荘大田方の地頭三善康継は桑原方地頭三善康連とともに領家高野山と相論したが,この時,康継は「山中郷公文職」「山中郷善福寺」を大田方地頭の知行と主張するとともに「山中郷内黒淵村」は地頭別作の地であると述べているその後,康継の庶子康綱が山中郷地頭職を相伝,天福元年には郷内に代官2人を置き,段別銭を賦課し,百姓を下人のように召仕ったとして寺家に訴えられたが,翌年には康綱が預所代官の非法を逆に訴えている嘉禎2年鎌倉幕府の命で一荘の検注がなされ,山中四郷在家目録・取帳・作田引付・作畠引付各1巻が作成された在家目録によれば総在家数123宇文永~弘安年間には当郷地頭が荘内の今高野社供僧・氏人を進退することや年貢の抑留が寺家の非難するところとなった弘安9年閏6月,幕府は山中郷地頭有信に年貢抑留を停めるよう命じたが,地頭の進止する当郷公文富部貞信はこれに従わなかったため,相論は嘉元年間以降まで続いた正応元年6月の山中郷公文名未進注文によれば,文永2年から弘安10年に至る23か年分の未進は408石9斗余に上ったという嘉元年間には寺家雑掌頼覚と山中郷地頭富部信連が所務相論を行い,正和年間以降は雑掌朝酉と当郷地頭代覚道が郷内下地をめぐって争っているところが,地頭信連は建武元年に凶徒追伐のため紀伊に赴いた際,高野山衆徒の軍忠を得たことを謝して,当郷地頭職を高野山大塔に寄進し,ついで,延元2年には信連の子資連が山中郷地頭屋敷も寄進するに至り,高野山は当郷の一円支配権を手中にしたこの頃を境として地頭三善氏の勢力は後退したが,大田荘は守護や在地武士の押領を被るようになった観応2年には将軍足利尊氏から当郷ほかの大田荘下地を寺家雑掌に付すべきことが命じられ,応安5年には在地武士広沢師実が「山中領家職」を高野山代官に去り渡しているが,寺家の一円支配はもはや実際には不可能となった永徳元年10月の守護山名時義書状によれば,大田荘では下地の半済が行われており,黒淵を除く当郷の大半は武家分となっていたらしい(高野山文書)応仁の乱以降は守護山名氏の領国の中に組み込まれ,やがて,戦国大名毛利氏の支配下に入った応仁の乱中,「山中横坂要害」には一時,東軍方の山名是豊が拠っていたが,山名政豊に属する西軍方の毛利豊元が攻略して拝領し,文明7年11月,毛利弘元に譲ったついで,文亀2年4月,山内少輔三郎が弘元から当地を与えられている(毛利家文書・山内首藤家文書)このほかに天文20年4月に河北俊興,同23年11月に政所甚五郎(田中元通),永禄元年7月に粟屋与十郎,元亀3年12月に福万元種,天正9年5月に内藤七郎右衛門尉らが毛利氏から当郷に知行地を与えられ,また天正6年正月には粟屋元種が「山中四ケ郷代官職」を申し付けられている(閥閲録9・86・98・112,山口県文書館所蔵文書)また天文19年11月には毛利元就が伊勢神宮に「拾弐貫文備後山中」を寄進した(贈村山家文書)慶長4年5月9日付廊之坊諸国檀那帳(熊野那智大社文書)には「大田十弐郷 山中十二郷」とも見えるが,具体的な郷名は不明である




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7617689