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倭寇と呼ばれた人々の正体


倭寇と呼ばれた人々の正体

◎倭寇のおかげで室町幕府は潤った!?

 倭寇[わこう]という言葉は、「倭」と「寇」の合成語である。倭とは日本人のこと、寇とは大挙して来襲する賊のことである。14世紀、朝鮮や中国の沿岸部の人々は、日本から船に乗って来攻し、略奪を繰り返す日本人海賊のことを倭寇と呼んで恐れた。

 倭寇のなかには400~500もの船をしたがえ、1000を超える兵士を有する強大な集団もあり、たびたび海から人家に乱入しては米穀を奪い、男女の別なく住民を連れ去った。人間は奴隷として酷使し、あるいは売り払うのだ。

 高麗(のちに朝鮮)や明国の政府は、軍を派遣して倭寇の討伐を試みるが、いつどこに現れるか予測しがたく、その鎮圧はむずかしかった。

 そこで明国は、室町幕府の将軍足利義満に倭寇の取り締まりを依頼、その代償として日明貿易を許可したのである。日明貿易は朝貢(日本が明に臣従する)形式をとったものの、その利益は多大だったため、義満はこれに応じ、厳しく倭寇を取り締まった。

◎「衣食足りれば…」――懐柔策で消えた倭寇

 さて、倭寇の正体だが、そのほとんどは九州の3島(対馬・壱岐・松浦[まつら]地方)の住民だったといわれる。3島の土地は農業に適さず、人々はふだんは海に出て漁業や貿易によって生計を立てていたが、生活に困窮すると、にわかに海賊に転じ、大陸で略奪を行なうのだった。困り果てた朝鮮では、鎮圧政策と併行して懐柔政策をはじめた。

 貧しい倭寇に対して投降を呼びかけ、これに応じた者に十分な衣食住を与えたうえ、官職まで下賜したのである。このような努力の結果、倭寇の多くが朝鮮政府に降り、少数の反抗者は武力制圧され、次第に消滅していったのである。

◎密貿易を行なった後期倭寇

 ところが16世紀後半、再び倭寇が登場する。東南アジアの島々にまで活動海域を広げ、略奪行為をはじめた。彼らを後期倭寇といい、前期の倭寇と異なるのは、略奪に加えて密貿易を盛んに行なったことである。構成員も違い、その大半は中国人だった。けれど、最大の首領王直[おうちょく]のように、拠点を平戸・五島といった九州地方においた集団が多かったようだ。しかし、密貿易を厳しく罰していた明国が1572年に法律をゆるめ、豊臣秀吉が1588年に海賊禁止令を出して倭寇を厳禁したことで、次第に彼らは姿を消していった。




日本実業出版社
「早わかり日本史」
JLogosID : 8539550