早わかり日本史 第5章 近代化する日本 明治維新から太平洋戦争へ 93 長州人の一徹さが時代を大きく動かした(尊王攘夷運動) ◎阿部正弘が諸藩を勢いづけた 幕府が崩壊するきっかけをつくったのは、老中阿部正弘[まさひろ]である。1853年にペリーが来航したとき、外様大名から庶民にいたるまで、彼は広くその対応について意見を求めたのだ。 幕府が政治上の意見を問うことなど、かつて一度もなかった。未曾有[みぞう]の国難に挙国一致であたろうとしたのだが、これがいけなかった。江戸時代、幕政は譜代大名と旗本・御家人が担当、外様や御三家はタッチできなかった。しかし、ペリーの件で慣例は破られた。 以後、天下の政治に目覚めた「雄藩[ゆうはん]」(御三家や外様のうち天保時代に藩政改革に成功した藩)は盛んに幕政に参画しようとし、やがて幕府を見限って朝廷を奉じ、倒幕に邁進[まいしん]する。 はじめに政治に介入してきたのは水戸藩である。同藩では徳川光圀以来の「尊王」思想に加え、突然、藩領に異国船が出現したことで尊王攘夷運動が盛り上がった。やがてこの尊王攘夷運動は長州藩に継承されていく。◎一途な勢いの長州藩が倒幕をはたした 運動を広げたのは、藩士の吉田松陰[しょういん]だ。彼は安政の大獄で捕縛され、やがて処刑されるが、長州に幽閉されていた時期、松下村塾[しょうかそんじゅく]を開いて子弟の教育にあたる。わずか2年間であったが、彼の熱情と独特な教育方針によって高杉晋作[しんさく]、伊藤博文、品川弥二郎[やじろう]、山県有朋[やまがたありとも]など幕末維新の原動力となる尊攘派の若者を育成したのである。 松陰の子弟は朝廷内に勢力を広げ、過激な攘夷行動に出た。外国人を殺傷したり公使館を襲撃したり、異国船を砲撃したりした。あまりの過激さゆえ、時の孝明[こうめい]天皇と幕府は、朝廷から長州勢力(公家7人)を駆逐する。これが「八月一八日の政変」である(1863年)。それに抗議する形で長州藩は翌年、大挙して京都に乱入、朝廷を守備する会津・薩摩軍と衝突して敗北する。 この機に幕府は長州征討[せいとう](第一次)を行ない、同時に列強諸国も海上から長州領を砲撃する。踏んだり蹴ったりである。このため藩内の尊攘派は一時勢力を失い保守派と交代、幕府に屈服してしまう。 ところが、すぐに高杉晋作がクーデターを起こして政権を奪回。事態を知った幕府は第二次長州征討を行なうが、長州は密かに薩摩藩と同盟を結び、薩摩から最新兵器を大量に購入、奇兵隊・諸隊(士庶混成軍)など近代歩兵部隊を駆使して幕府・諸大名軍を撃退したのである。これによって幕府は権威を失墜[しっつい]、一気に明治維新に突入する。 ボロボロになりながらも長州人が一貫して主義主張を変えなかったことが、時代を大きく動かしたのである。しかしながら、そんな長州藩は新政府を発足させると、尊攘思想を未練なく捨て去り、かつて幕府が施政方針としていた開国和親を唱えてゆくのだから、政治というのはまことに不思議なものである。 日本実業出版社「早わかり日本史」JLogosID : 8539584