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最初から腐敗していた? 宋の官僚国家体制


最初から腐敗していた? 宋の官僚国家体制

◎唐帝国の滅亡から「五代十国時代」へ

 唐も末期を迎えた9世紀末になると、塩の密売商人の黄巣を指導者とする大農民反乱(黄巣の乱、875~884)が中国全土に広がった。黄巣は、一時皇帝となり「大斉」という国を建てるにいたるが、部下の朱全忠の離反などにより反乱は鎮圧された。

 907年になると、節度使となっていた朱全忠が唐を滅ぼし、「後梁」という国を建てた。それ以後、50年あまりの間に江南と華北を結ぶ経済都市、開封を首都とする五つの短命な王朝が交替し、周辺に節度使が10の国を建てて争いあう「五代十国時代」(907~979)に入った。

 各国は、多くの軍隊を養う必要から産業の育成につとめたので、この時代には経済が発達した。しかし、中国では伝統的に武人の社会的地位が低く、節度使と部下は個人的な契約関係にあり、節度使は自己の所領をもたずに税で軍隊を養ったため、日本の武家社会のようにはならなかった。

◎武力による支配から「文治主義」へ

 960年に五代の最後の王朝、後周の節度使だった太祖・趙匡胤は、7歳の皇帝から位を引き継いで「宋」朝を建国した。

 979年、第2代の太宗は、混乱が続いていた中国を久しぶりに統一した。宋は、それまでの武断政治を改めようとして節度使を廃止するとともに、精鋭軍をすべて首都の周辺に集めて皇帝の統率下におき、文人官僚が統治に当たる「文治主義」を採用し、皇帝独裁の体制を強化した。また、唐の滅亡期に貴族が没落したことから、すべての高級官僚は官僚選抜試験である「科挙」により選ばれるようになった。

◎高級公務員にはワイロもあり!?

 科挙は3年ごとに地方で実施される「州試」、中央の礼部が実施する「省試」、皇帝自身が試験官となる「殿試」からなっていた。中央試験は、食料・寝具を持参して試験場に入った受験生が30時間以上にわたり筆記試験に臨むという苛酷なもの。

 皇帝は、「殿試」を最終段階につけ加えることですべての合格者の「師」となり、師弟関係を利用して官僚に対する統制を強めた。皇帝の代理人としての官僚には広い権限が与えられた。ワイロを取ることも公然と認められ、小さな県の長官を3年間やれば孫の代まで遊んで暮らせるほどの実入りがあるといわれるほどであった。

 試験の内容は、43万余字からなる儒学の経典(古典)と、それに倍する注釈書、歴史書などをマル暗記しなければ答えられないもので、役人を志す者は6歳くらいから塾で受験勉強を始めたのだ。

 官僚とその予備軍の一族は「士大夫」層と呼ばれ、宋帝国の新しい支配層になった。唐の貴族文化に代わり、宋で儒学を背景にする庶民文化が栄えたのは、そのためである。




日本実業出版社
「早わかり世界史」
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