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300年も続いた辮髪の国・清


300年も続いた辮髪の国・清

◎辮髪にしなければ首を切る!

 明帝国が滅亡すると、明軍と対峙していた女真人が明軍と結んで中国に入り、李自成の反乱軍を鎮圧して「清」を建国した(1644年)。

 清は、元の失敗に学び柔軟な統治策をとった。モンゴル人が建国した元は、中国文化を蔑視して短期間で滅亡したからだ。その結果、1912年までの300年あまりの長期にわたり、わずか200万人の女真人が数億の漢民族を支配する帝国が続いた。

 清は、明の諸制度をひき継ぎ、皇帝を先頭にして儒学などの伝統文化を積極的に学び、中央官庁の要職を偶数定員とし、満人(女真人)と漢人を同数で用いた(満漢併用)。だが一方では、少数の女真人による支配を安定させるために、辮髪(頭髪を剃り、後頭部の一部の髪だけを長く伸ばして一本のひものように編みあげる髪形)などの女真人固有の風俗を「髪の毛を切らなければ首を切る」として強制し、さらには厳しい言論統制(文字の獄)による支配を行なった。

◎超優秀な皇帝による繁栄の時代

 8歳で即位して61年間もの支配を行なった4代康煕帝は、漢人の武将の反乱(三藩の乱)を平定し、台湾、外モンゴル、青海、チベットを征服して領土を広げ、財政も在位50年を記念して人頭税を軽減するほど充実させた。

 康煕帝は、よくフランスのルイ14世と比較される。ルイ14世は、ほぼ同時代に5歳で即位し、72年間統治を行なった。彼が派遣した宣教師ブーヴェが、「康煕帝は孔子の著書を大半、暗記されておられますし、シナ人が聖書と仰いでいる原典もあらかた暗誦されております」と報告しているように、康煕帝は学問好きであった。彼は、酒、タバコを一切やらず、陣中でも300の上奏文に目を通したという。

 康煕帝は、男子35人、女子20人の子だくさんであり、最初は第2子を皇太子としたが、政争や非行が明らかになると退けた。そのため世継ぎが決まらず、帝は臨終の床で侍臣の手のひらに筆で「四」と書いて第4子を指名することになった。しかし、実は「十四」と書いたのだとか、「十」が消されたのだというような噂がまことしやかに流された。そこで、新たな皇帝となった雍正帝は、あらかじめ皇太子の名を錦の箱に入れておき、死後それを開くという帝位継承法を定めた。その結果、帝位をめぐる暗闘がなくなり、力関係で愚かな皇帝が即位することがなくなったといわれる。

◎史上最大の中華帝国の支配術

 清帝国は、康煕・雍正・乾隆の3人の皇帝が支配した130年間に、史上最大の中華帝国となった。支配下に入った内・外モンゴル、青海、チベット、新疆(西域)は、本部に対して「藩部」とされ、諸民族の一定の自治を認めながら、中央の理藩院、要地に配置した将軍、大臣に支配させた。

 清は本部と藩部の二重の統治体制を用いて、広大な領域を支配したのである。また、アジアに勢力圏を広げたロシアとの間に、1689年にネルチンスク条約という対等の条約を結び、シベリアと東北の境界を設定した。




日本実業出版社
「早わかり世界史」
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