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坂本(古代)


奈良期~平安期に見える地名相模国足上【あしのかみ】郡のうち「古事記」景行天皇条には,出雲征討から戻った倭建命に関東の蝦夷征討が命じられ,これを無事平定して帰路についたことが見える同書には,「足柄の坂本に到りて,御粮食す処に,其の坂の神,白き鹿に化りて来立ちき」とあり,倭建命は当地の神の化身である鹿を誤って殺したことを嘆いて「阿豆麻波夜」と言ったことから当地方を「阿豆麻」と称したという地名譚が載せられている(古典大系)古くからの東西交通の要所で,中世に箱根路が開かれるまでは足柄峠が利用され,当地は相模国に入った坂の麓の意味に解されるこのため「万葉集」などにも足柄峠や当地を詠んだ歌が多いなお「日本紀略」延暦21年4月19日条には,「廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼砕石塞道也」とあり(県史資1‐古217),富士山の噴火のため足柄路を閉じ箱根路を開いたが,翌年5月8日条には「廃相模国筥荷路,復足柄旧路」とあり(同前古221),足柄路が再び公道として利用されることになった当地の関の果たす役割は大きく,「将門記」にも「一朝之軍攻来者,足柄碓氷固二関,当禦坂東」とあるように(新撰日本古典文庫),東海道から東国に入る要衝であったことがわかるまた「延喜式」巻28の兵部省に「相模国駅馬〈坂本廿二疋……〉」と見えることから,当地は「和名抄」相模国足上郡六郷の1つ駅家【うまやの】郷に属したものと思われ,坂本駅が置かれて駅馬22疋が常備されたことがわかるなお足柄路について,菅原孝標女は「更級日記」に「足柄山といふは,四五日かねておそろしけに暗かりわたれり,やうやう入りたつふもとのほとたに,空のけしきはかはかしくも見えす,えもいはす茂りわたりて,いとおそろしけなり,ふもとに宿りたるに,月もなく暗き夜のやみにまとふやうなるに,あそひ三人,いつくよりともなく出て来たり」と記しているその後鎌倉期には,飛鳥井雅経の「明日香井集」に「足柄の山の関守古は有もやしけん跡たにもなし」と詠まれたように,関としての機能は薄れたものと考えられる中世には関本の宿が見え,現在の南足柄市関本に比定される

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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7303529