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佐味郷(古代)


平安期に見える郷名「和名抄」に見える新川【にいかわ】郡10郷の1つこれに関連して佐味駅が存在し(延喜式・高山寺本和名抄),また宝亀11年12月25日付の「西大寺資財流記帳」には佐味荘の名が見える(寧遺中)その所在地は必ずしも明確ではないが,遺称地である中世の佐味郷および近世の三位【さんみ】郷・大三位郷の範囲によって,ほぼ現在の朝日町境【さかい】・宮崎から黒部川の扇状地一帯にかけての地域に比定されているただ後世にも黒部四十八ケ瀬と称された黒部川の激しい活動を考えれば,古代の佐味郷は,佐味駅に比定されている朝日町泊【とまり】の東部から宮崎あたりを含んで,扇状地縁辺の山麓部に点在する諸集落によって構成されたものと考えられるなお現在泊の東南端に鎮座する佐味神社は明治41年2月に旧沼保村の氏神応神天皇と旧荒川新村の氏神天照大神とを合祀し,その際に往古の郷名にちなんで総称佐味神社と改称されたもので(下新川郡史稿),直接古代の佐味郷に結びつくものではないまた名称については「和名抄」の刊本に「佐比【さひ】」の訓を付すが,中世の佐味郷が佐美郷とも書かれ(蔭涼軒日録,長禄2年5月6日条・元亀元年12月13日河田長親寄進状 県史中),また近世の三位郷も「さんみごう」と称されるので,一般に「佐比」の訓は誤りとされているただ「北越軍談」「上杉三代日記」などに,永正6年,長尾為景が上杉顕定に敗れ,越後の市振から越中の西浜へ退いたことが記され,また「松隣夜話」には天正3年の上杉謙信の椎名退治の話に「越中八幡の後,西の庄」という地名が見えるさらにまた近年発掘調査され,平安前期の庄所の遺構と考えられている入善町の「じょうべのま遺跡」からも西庄と記した墨書土器が発見されており,その遺跡地は海岸に沿い同町八幡のすぐ西側に当たっているこれらがいずれも「さいはま」「さいのしよう」と訓まれるべきものであれば,「和名抄」刊本に付された「佐比」の訓にもなお検討すべき点が残されているようである

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KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7319063